ナチス・ドイツがポーランドに侵攻したことによって、第二次世界大戦の火蓋が切って落とされたのは歴史的な事実であり、その後のポーランドを含む数多くのユダヤ人がその生命を奪われた。
俗にいうホロコーストであるが、実はドイツのホロコーストが大きく目立つ一方で、当時ドイツと不可侵条約を結んでいたスターリン率いるソ連が、大量のポーランド人を虐殺するという戦争犯罪をおこなっていた。
この虐殺行為は「カティンの森の虐殺」と呼ばれており、戦後ソ連が崩壊寸前になる1990年まで、その責任を認めていなかった。
しかも、この虐殺行為の証拠を発見したのは、なんと当時にポーランドへ侵攻し、ソ連と戦争中のナチス・ドイツだったのだ。
またこの虐殺行為は、当時の情勢問題から既に事情を知っていたイギリスやアメリカにも黙殺されたのである。
1939年、当時のソ連とドイツは両国ともにポーランドへの侵攻を目論んでいたとされている。その結果、結ばれたのが「独ソ不可侵条約」であった。
当時のポーランドはロシア人による支配に非常に反発が強かったらしく、これがカティンの森の虐殺に繋がったと言われてる。
1939年独ソ不可侵条約を破り、ナチスドイツはポーランドへ侵攻して占領下に納めた。カティンの森の大虐殺が行われたのは、この翌年1940年だと言われている。
スターリン政権下にも、ナチスドイツと同じような秘密警察が組織されており、ポーランド軍の将校やポーランド人捕虜、合計2万2000人以上とも言われる人々がスターリンのソ連によって殺害されたという。
その後、1941年にはナチスドイツとソ連が戦争状態に突入し、ナチスドイツが東部戦線としたロシアの西側、カティンの森から多数の遺体が発見された。
1943年、ナチスドイツは政府としてカティンの森に大量の遺体があることを発表する。
当時、ポーランドはナチスドイツの支配下にあったことから政府は亡命してロンドンへと移ってた。
ここで、ポーランド亡命政府は国際赤十字にこの遺体についての調査を依頼したとされる。
この調査を行う際に、ソ連及び、スターリンは協力を断り、「虐殺は1941年にナチスドイツによって行われたものである」と主張していた。
当時の国の色の如く、真っ赤な嘘である。
実際には、1940年にスターリンの配下によって行われた虐殺だったにも関わらず、平気な顔で嘘を突き通した。それも第二次世界大戦が終わり、1990年になるまで、ソ連政府はこの責任を認めなかった。
この遺体発見の発表が行われた1943年に、当時のイギリスの首相であったチャーチルはこれを事実だとほぼ確認していたと言われている。
そして同年、ナチスドイツが行なった遺体調査には連合国側の戦争捕虜が同行しており、この戦争犯罪がソ連によるものであると確信し、ナチスドイツはワシントンに対して暗号化してメッセージを伝えたと言われている。
しかし、これらの情報は、政府の上層部によってもみ消された。
現在残っている証拠としては、ルーズベルト大統領宛にポーランド亡命政府のイギリス大使から送られた書簡があるという。この書簡の内容は、既に侵攻されていたナチスドイツを糾弾するものではなく、数々の証拠から虐殺に関与していないというロシアに対しての大きな疑問が浮かぶ、というものである。
結果的に言えば、イギリスのチャーチル、アメリカのルーズベルトもこの第二次世界大戦の命運はソ連のスターリンによって握られていた。
いわば、暗黙の了解でこれらの虐殺行為を黙認したのである。
とは言え、濡衣を着せられたナチスドイツも、この事実を利用して優位性を立てようと画策していたことも知られている。
一番の被害者は、何の罪もなく殺された2万2000人におよぶポーランド人であった。
第二次世界大戦が終戦したのは、実質的には1945年と言われており、そこから約35年後の1990年、ようやくソ連政府は当時の戦争犯罪に対して責任を認めている。
世界規模の戦争という緊張状態であったとは言えど、戦争犯罪は消えるものではない。
各国の立場や思惑が交錯したとは言えど、改めて第二次世界大戦が如何に複雑な戦争であったかが、分かるエピソードの1つだ。
現在まで第二次世界大戦後に日本そのものが直接戦争に巻き込まれたことはないが、世界各国では紛争を含めて多くの戦争が起こっている。
せめて、こういった戦争犯罪が繰り返されないことを祈りたい。
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