アンコールワットは悲劇の地だった?ポル・ポト派”クメールルージュ”がしたことが恐ろしすぎる

世界遺産のアンコールワット、行ったことはなくても写真やテレビで見たことがあるという方が多いのではないでしょうか。

アンコールワットは今では、有名な世界遺産で観光地になっています。日本からのツアーなどもありますし、行こうと思えば行ける場所です。

そのアンコールワットがあるカンボジアでは、ポル・ポトが率いた「クメールルージュ」という共産主義政党による、とんでもない大虐殺が起こりました。

当然、アンコールワットでもその悲劇が起こったのです。

公開日:2019年11月6日 更新日:2020年3月14日

アンコールワットはいつ作られた?どこにあるの?

アンコールワットは、カンボジア北西部に16世紀に建設された寺院です。

つくしの頭みたいな特徴のあるデザインはとても印象的ですよね。

アンコールワットは、その周辺の遺跡群含めて全てがユネスコの世界遺産に指定されています。

クメール語でアンコールは首都、ワットは寺院という意味…この名前からもアンコールワットはカンボジアにとってとても重要な寺院ということが解ります。

美しい装飾が施されたアンコールワットは宗教的にも建築物としてもとても貴重なものです。

ポル・ポトとクメールルージュとは?大虐殺の理由に迫る

アンコールワットがあるカンボジア…今では、観光で訪れることができますが、ポル・ポトが率いるクメールルージュが台頭していた時代にはそうは行きませんでした。

ポル・ポトが政権を握っていた時代…観光はおろか、自国民ですら「カンボジアから逃げ出したかった」に違いありません。

そのくらいのひどい虐殺をポル・ポト率いるクメールルージュがしたのです。

ポル・ポトは、本名をサロット・サルという政治家です。

画像引用元:ポル・ポト

比較的裕福な農家の出身でフランス留学も経験したエリートで王宮とも関係がある家でした。

中国や北朝鮮を訪問したこともあると言われています。

ポル・ポトがカンボジアに帰国した頃、中国ではあの悪名高い文化大革命が本格化する少し前の時代でした。この文化大革命に影響を受けたかは定かではありませんが、ポル・ポトはこのころにジャングルの中にカンボジア共産党の訓練学校を作ります。

そして、政府軍との戦闘を繰り広げるクメールルージュという戦闘組織に発展していきます。

紆余曲折を乗り越えて、ポル・ポト率いるクメールルージュは1975年4月17日に首都のプノンペンを占拠し、同年5月13日にポル・ポトは首相に就任することになります。

ポル・ポトが首相に就任してから地獄の日々がカンボジア国民を襲った

ポル・ポトは首都の名前をプノンペンから民主カンプチアに変更…そして、自国民に対してに原始共産主義に基づいた、過剰な自給自足の生活を強要します。工場を閉鎖し、自動車を取り上げ、銀行を閉鎖し、貨幣制度を廃止。そして、都市部から250万人もの人を強制的に農村に移住させて農業に従事させました。

ポル・ポトが目指していたのは、格差が極端にない共産主義社会でした。

そして、この共産主義に反対するものや、邪魔ものだと判断された知識階級の人間を強制収容所に送って処刑してしまいます。

その強制収容所の中でも悪名高いのが「トゥールスレン」です。

参考資料 B.Kiernan, The Pol Pot Regime(third edition), p.127
     井川一久編著「新版カンボジア黙示録」田畑書店

悪名高き「S21 トゥール・スレン」から生還したのはわずか8人


ポル・ポトが作った強制収容所のトゥールスレンは、学歴がある知識人や、政治家、公務員、宗教家などが主に送られた場所です。

他にも、仕事や政権に不満を言ったり、様々な規則を破った人も、トゥールスレンに送られました。

トゥールスレンの環境は劣悪で、ひどい拷問を受けた後に処刑されました

ちなみに当時クメールルージュが国民に強いていた規則の一部を紹介すると…

  • 宗教禁止
  • 個人資産の保有禁止
  • 子供を親元から引き離す
  • 自由恋愛
  • 許可のない性行為

というものです。子供はすべて親から引き離して軍隊に入れられ、恋愛も禁止結婚は政府が指定した人と強制的にさせられました。

これに不満を言ったり反対したりすると強制収容所に送られるか、その場で処刑されるかのどちらかでした。中には「眼鏡をかけている」というだけで、知識人だと言われ、強制収容所に送られたケースもあったそうです。

そして、死刑を宣告された人は、自分で穴を掘らされます。そして、弾薬を節約する為に、クワなどで殺害されたそう…子供や赤ちゃんは地面や岩に叩きつけて殺されたとか。生きたまま人体実験に使われた人もいたそうです。もちろん、処刑さる前に、栄養失調や病気で亡くなる人も多くいました。

ポル・ポトが虐殺した自国民は150万人から200万人と言われていて、正確な数字は解っていません。仮に200万人だとすれば、当時のカンボジアの人口の20%以上となります。

参考資料 “Year Zero: Reflections From Cambodia On Hatred, Blame, And U.S. Politics”. ハフポスト. (2016年11月28日)

アンコールワットも悲劇の地だった?

世界遺産アンコールワットの周りにも、ポル・ポトが自国民を処刑するためにつくられた「キリングフィールド」という場所がたくさんありました。

キリングフィールドでは、食べ物に殺虫剤が混ぜられて、腐ったものを食べさせられました。そして、処刑される人の声をかき消すために、革命の歌が大音量で流されていたそうです。

そして、今では観光地にになっているアンコールワットもポル・ポト派の要塞として活用されていました。

アンコールワットには弾痕もたくさん残されていて、アンコールワットが激しい戦闘の地だったことが解る場所も残されています。ちなみに…まだ、ポル・ポト派の勢力が強かった時代にアンコールワットに向かった日本人も殺害されています。

参考資料 アンコール・ワットは「キセキのイセキ」(カンボジア)https://www.iec.co.jp/asia/005.html

まとめ

世界遺産のアンコールワット…今ではお金と時間さえあれば、比較的安全に観光ができる観光地になっています。

ですが、ほんの少し前、アンコールワットがあるカンボジアではポル・ポト派による自国民の大虐殺が起こり、アンコールワットはポル・ポト派の拠点のひとつでした。

アンコールワットからも近い場所にも作られた処刑場のキリングフィールドには、虐殺の痕跡が今も生々しく残されています。

Miiko

ライター歴約10年 法学系院卒 得意記事は、歴史・スピリチュアル・法律等々 福岡の隅っこでコーヒー片手に執筆中