小さい頃、公園の砂場で砂あそびをしたことがある人は多いと思います。
立派なお城や山を作って、固めて…でもあれって最後に派手に壊すのがいちばん楽しかったりしません??
そんな中で、砂のお城をちょっとずつちょっとずつ崩すことに快感を覚える子供がいたら…いったいどの時点で砂のお城は砂のお城ではなくなるのでしょうか?
今回はそんな思考実験「砂山のパラドクス」について考えていきます。
砂山のパラドクスの概要はこんな感じです。
砂でできた山があります。
この砂山から、砂の粒を一粒取り除いたとしても、それはまだ砂山です。
同じように、二粒、三粒…というように砂を取り除いてもまだまだそれは砂山。
これを繰り返し、最終的に最後の一粒を取り除いた時にそれは「砂山」といえるでしょうか。
「砂山のパラドクス」は、定義のはっきりしないことを扱う「言語哲学」というものに分類されます。
数学や科学の世界では、全ての用語には定義があります。(例:「三角形」とは3つの角からなる図形)
しかし、この思考実験は「砂山」という砂の粒が何粒あつまってできたのかはっきりしないものに、あえて数学的な論理で挑んでいるのです。
同じようなものに「ハゲ頭のパラドクス」というものがあります。
とすると、この試行を繰り返し、最終的に髪の毛がフサフサになっても全ての人はハゲである。となりませんか?
数学的にいうと、
髪の毛の数X=0のとき、ハゲ
X+1=ハゲ
髪の毛の数が(X+n)本のとき、まだハゲだとすると(X+n+1)本のときもハゲ
よって、n=∞のときもハゲとなる。
どうでしょう。ハゲといわれる人にも希望の光はあるでしょうか。
このように「言語哲学」というものは、数学と違って定義の曖昧な概念に対し、きちんと定義を決めようとする哲学です。
前述のパラドクスでいうと、「砂山」「ハゲ」といった数的に曖昧な定義を持つものに対して
「砂山とは何粒の砂が集まってできたものなのか。何粒未満になると砂山と呼べなくなるのか」
「髪の毛が何本以下になるとハゲというのか」
という問題が付きまとうのです。
日々、私たちが生活している中にもこの問題は付きまといます。
例えば、体重計を見て「うわ~マジデブだわ~」と嘆くギャル。
しかし、「デブ」とはいったい体重が何キロになったらデブなのでしょうか。(BMI的にいうと「肥満」の基準はありますが)
「デブ」という言葉は本来人によって感じ方が違うもので、明確な基準はありません。
とはいえ、現実的にはほとんどの言葉や概念には数的な定義と曖昧な感じ方が混ざっています。
例えば、収入が少なく生活が困難な人支援する制度である生活保護。
「収入の少ない人」という曖昧な言葉は、具体的に収入が〇〇円以下~という基準が存在します。
しかし、「生活が困難」という点においては「日本語が上手く話せないから働けない…」や「精神障害があって働けない…」というように、数学的にはとても曖昧な基準も含んでいます。
このように、砂山も「これぐらい砂が積みあがったら砂山だ」という個人の定義が必ずどこかにあります。
それを満たさなくなったとき砂山は砂山とはいえなくなるのです。
言語哲学に数学的に挑む、「砂山のパラドクス」を紹介しました。
私たちは普段、とても曖昧な言葉を使って生きています。
数的な定義は決まっていないことのほうがほとんどで、その判断は個人に委ねられている、そこが重要なのです。
ときには個人の基準の違いによって不平不満や争いが生まれたり…
だからこそ、言語哲学というものは日ごろから考えていかなければならないのです。