美味しいものを食べているとき。ゆっくりと温泉に浸かっているとき。
はたまた、仲間とスポーツを楽しんでいるとき。
人は様々な場面で「幸福」を感じます。そして、可能ならずっと幸福でいたいと思うでしょう。
しかし実際にはそうもいかず、不幸も必ず訪れます。
今回は、幸福とは何なのか、人間の本質は不幸にあるのだという考えをもとに考えていきましょう。
日本の哲学者であり作家の中島義道さんは、自身の著書「不幸論」の中で、こう語っています。
「人間はずっと幸福でいることはできない。ずっと幸福であるなんていう人がいるならば、それは幸福なふりをしているだけだ」
かなりとげのある主張ですが、幸福の本質をついた意見なのではないでしょうか。
中島義道さんによると、幸福の定義は以下のとおりです。
- 自分の特定の欲望をかなえていること
- 欲望が自分の信念にかなっていること
- その欲望が世間に承認されていること
- 欲望を実現することで他人を不幸に陥れないこと
中島さんは、この4つを全て満たすことは不可能だといいます。
特に4つめの条件はほぼ不可能で、人間は生きているだけで他の人に迷惑をかけているため誰かを不幸にしている、というのです。
中島さんは他にも、「幸福とは思考の停止である」とも語っています。
彼の定義では幸福になるのはほぼ不可能であり、幸福があるとすれば、それは真実を見ずに催眠術にかかっているようなものなのです。
「幸福になりたい」と願っている人は、この催眠術にかかりたいと願っているということになります。
19世紀のイギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルは、「自由論」の中で
「自分自身の中にある、幸福ではない他の目的に精神を集中させるもののみ、幸せになれる」
といいました。
何かひとつのことに集中し取り組んだとき、ふと思いもよらない瞬間に幸福が訪れるというのです。
つまり、幸福は「何か別のもの」から得られる副産物。
ひたすら音楽を作り続けたミュージシャンは、曲を作り歌うことじたいは幸福ではありません。
ふとライブ終わりにファンから「良い曲でした」と声をかけられることこそが幸福なのです。
哲学者・数学者のパスカルは、著書「パンセ」の中で
「人間は、死や不幸、無知を癒すことができなかった。幸福になるため、それらのことを考えないようにしたのだ」
と語りました。
人間には「死」や「不幸」は付いて回るもので、むしろ不幸こそが人間の本質だとしたのです。
不幸をどうすることもできない人間は、そこから目をそらすことで幸福になろうとしました。
中島義道さん「不幸論」の話に戻ります。
こういった観点から、中島さんは「自分は幸福だ」と思い込んでいる人を「怠惰である」と無残に切り捨てます。
幸福とは、視野の狭い人にしか成り立ちません。
今ある幸せも、あらゆる因果関係をひも解くと誰かの不幸の上に成り立っているのです。
そしてそういった幸福とは、中島さんの定めた定義では「幸福」とは呼ばないのです。
この「不幸論」では、中島義道さん独自の幸せに対する哲学が語られています。
人間は、鈍感で余計なことを考えない人ほど幸福になれます。
自分がいま幸せであることの因果関係を考えない。余計なことには気づかない。
例えば好きな人と結婚して幸せの絶頂にいても、その相手は自分の親友の好きな人かもしれません。
そのことを知ればあなたは少なからず心の中で葛藤し、純粋に幸福だとは言い切れなくなるでしょう。
もし幸福になりたいと強く願うのであれば、鈍感になるほかないのです。
「不幸論」から、幸福とは何なのかを考えていきました。
今回紹介した考えでは、人間の本質は「不幸」にあると定められています。
確かに、誰かの何かしらの不幸の上に自分の幸福はあるのだと共感しました。
ただし、世の中には「幸福論」と題された著書・作品が多数あります。
そういった色んな考え方から、自分なりに「幸福」を追求していけると良いですね。