封神演義と言えば、天才軍師かつ主人公として名高い「太公望」が有名です。
藤崎竜のマンガ「封神演義」では主人公として描かれたように、小説の封神演義においても崑崙山の道士(いわば仙人の前の人物)として殷と周の革命に関わった人物として登場します。
また、太公望の有名なシーンと言えば釣りをしている場面です。
後に周を起こす武王の父である文王が、太公望が釣りを終えるまで待っていたという逸話です。
三国志演義で言えば、劉備が諸葛亮を迎えた三顧の礼に近いようなイメージですね。
そんなマンガや小説の封神演義では主人公として扱われている太公望ですが、実は史実では非常に謎の多い人物となっているんです。
今回は太公望の実像について考察していこうと思います。
画像引用元:呂尚
周の軍師として活躍した「太公望」は正式には「太公望呂尚」と呼ばれています。
史記における太公望の実像は実に謎が多く、ハッキリとした出自や出生が判明していません。一説によると朝廷に仕える前には屠殺人や飲食業を営んでいたとも伝わっています。
さらに、朝廷との関係においても封神演義とは大きく違っており、元々は殷の紂王に仕えていたものの、紂王を見限って下野したという説もあります。
この出来事があった後、諸国を放浪しながら殷を取り巻いていた周囲の諸侯に遊説して回ったようですが、この時にはまだその才覚を認められないどころか、相手にもされなかったようです。
最終的に身を寄せたのが後の文王となる西伯昌だったと言われています。
この事から、封神演義で描かれた有名な軍師を求めて釣りをしている太公望に会いに行った文王のエピソードはおそらく小説独自の脚色である可能性が高いのです。
周の文王の元へ身を寄せることになった逸話は大きく3つの逸話が「史記」に書かれていますが、信ぴょう性はイマイチとのこと。
(ちなみにマンガ版の封神演義では大筋で全ての逸話を盛り込んでいます)
一般的に解釈されている太公望のイメージは天才的な軍略家であったり、殷と周の戦いにおいての中心人物であったというものが強いですが、実は周軍の軍師の1人に過ぎなかったのではないか?という説もあるのです。
実際の太公望呂尚が周の軍師としてどの程度評価されていたのかは定かではありません。
しかし、牧野の戦いと呼ばれた殷と周の決着を付ける戦争において武王が率いた周が殷に変わった時に、その功労を認められて後の、始皇帝時代には超大国となっていく「斉」に封ぜられます。
殷王朝が約600年ほど続き、周に変わったのは約紀元前1100年頃だと言われていますが、それから更に時代が進み
紀元前250年頃より、秦と他の大国が群雄割拠を争う戦国時代まで斉の国は太公望呂尚を初代の王として繁栄していきます。
特に太公望を神格化したのは、この戦国時代の斉であったと言われており、その影響で後世の評価が大きく上がったのではないか?という説もあります。
後世では斉の国の始祖となった人物として神格化され、封神演義においても主人工として扱われる太公望呂尚ですが、これらの史実と考古学的な史料が合わないことも指摘されています。
例えば、まだ殷の時代にあった甲骨文には呂尚の領地として「斉」の名前が見られるにも関わらず、周代(武王の時代)に入ってからの史料となる物には一切その名前が記されていないそうです。
大筋の流れで言えば、殷の時代には太公望呂尚は後の周になる武王の元に居たはずですが、なぜか殷の時代に既に斉の領主になっているというのは、明らかな矛盾です。
しかも、周の時代になってからの史料に名前がないことも不可思議な点だと言えるでしょう。
封神演義の物語が作られたのは、これらの時代よりももっと後の進んだ14世紀から17世紀ころです。
後世の創作として評価が左右される人物は多数存在しますが、太公望呂尚はまさにその典型的なモデルであるとも言えるかもしれません。
とは言えど、封神演義という物語自体は面白いので、興味のある方はぜひ読んでみてください!
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