三国志でもっとも天才的な軍師と言えば蜀の軍師として劉備に仕えた諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)が挙げられます。
『死せる孔明生ける仲達を走らす』という言葉があるように、当時魏の軍師であった司馬懿を大いに翻弄した逸話でも有名です。
しかし、この言葉が生まれた蜀の北伐は成功することなく諸葛亮孔明もその生涯を終えます。
また、諸葛亮には不思議な逸話も残っており、ここまで後世に名前が知られているにも関わらず曹操が諸葛亮孔明に触れている形跡がないのです。
今回はそんな諸葛亮孔明について紹介していこうと思います。
画像引用元:諸葛亮
諸葛亮孔明は劉備が劉表を頼って7年間ほど特に動きのなかった頃に、徐庶という軍師からその存在を紹介され、最初は劉備が徐庶に『諸葛亮孔明を連れてきてくれないか?』と訪ねたそうです。
しかし、徐庶の返答は『彼は私が呼んだくらいで来るような男ではない』と言ったことから、劉備自身が訪ねることになります。
この数度に渡る訪問が後の『三顧の礼』と言われているものです。
諸葛亮は晴耕雨読の生活をしていましたが、劉備に天下三分の計を授けてこれを実現させるために正式に劉備の軍師となります。
画像引用元:諸葛亮
三国志演義では、劉備の軍師になった諸葛亮は、呉との同盟にも重要な役割を果たしており、その後、世紀の合戦になった『赤壁の戦い』では中心人物として描かれます。
史実の三国志では赤壁の戦いの前に、劉備の陣営に訪問していた呉の魯粛と会談し、その後、呉で孫権と面会して対曹操への動きを呉に促したとされています。
実際の赤壁の戦いでは、三国志演義のような東南の風などの記述は残されていないため、当時の劉備に向けられた曹操の脅威を分散させるために、呉に対して魏に服従ではなく反戦させる1つの役割を果たしたと考えられますね。
[char no=”1″ char=”オカルトマト”]流石に妖術師のように風を操るってのは無理がある[/char] [char no=”2″ char=”すぱもん”]孔明は季節風を知っていたという説はあるものの、実際に赤壁の戦いでは何をしていたのか不明です[/char]この後、荊州への侵攻や劉備の入蜀においては、様々な補佐役を果たし、蜀の国が成立した後には丞相として富国強兵策に取り組みます。
しかし、荊州での争いによって関羽が呉に殺害され、関羽への弔いとして呉への侵攻を決めた劉備を止められず、蜀軍は呉に大敗してしまいます。
この争いをきっかけに劉備は白帝城にて死去。
蜀の皇帝には劉禅が即位し、諸葛亮は丞相として劉備の悲願であった北伐を心に誓い、劉禅を補助しつつ蜀の内政を一手に引き受けるのです。
劉備が亡くなった後、諸葛亮は合計5回に渡って魏への侵攻を試みました。
諸葛亮による北伐はいずれも失敗に終わっており、最終的には第五次北伐戦にて死去。
これがゲームなどでよく最終ステージに選ばれる『夷陵の戦い』と呼ばれるものです。
結果だけを見ると、小さな勝利はあったものの大戦果と呼べるほどの勝利をすることは出来ず、魏の司馬懿によって侵攻を防がれたのが現実でした。
しかし、蜀という場所から北伐をするには、非常に険しい山道を進む必要があり、さらに補給の問題も深刻であったと言われています。
実際に、最後の戦いとなった『夷陵の戦い』では、食料を現地で調達出来るように開墾などもおこなったとされていますが、土壌が合わず最終的には食料の問題によって撤退を余儀なくされます。
魏の司馬懿は諸葛亮の北伐に対して、持久戦に持ち込む戦法を多く取っており、決して深追いはしなかったとも言われています。
さらに、夷陵の戦いにて退却した諸葛亮孔明の陣の作り方を見て、『諸葛亮孔明こそ稀代の軍師である』と驚嘆したとも。
さて、ここまでの内容は少し三国志を知っている人であれば、聞いたことがある内容かもしれません。
しかし、実は史実に残されている史書の三国志などにおいても、曹操が諸葛亮孔明に触れている場面が一切ないのです。
曹操と言えば、有能な人材を身分の上下に問わず集めていた人物でした。
しかし、諸葛亮については一切言及していないという不思議な事実があるのです。
このことから、一時は諸葛亮孔明そのものが実在したかどうか?ということも議論になったそうです。