1917年7月13日。
ポルトガルの小さな街、ファティマにあるカベソの丘と呼ばれる場所に聖母マリアが現れ、3人の子どもたちに3つの予言を与えたという。
世界各地でキリストや天使が現れたという噂や、神を見たという話などキリスト教にまつわる奇跡的なエピソードは数多くあるが、後に【ファティマの予言】と呼ばれるこの出来事は、単なる噂話などではない。
ことの発端はファティマの予言を受けたという1917年より約1年前から自らを「平和の天使」と名乗った少年が、子どもたちの前に現れては祈りの言葉や作法などを教えていたことに始まる。
ポルトガルの小さな街で起こったファティマの予言がどうしてここまで世界的に影響を与えたのか?
多くの群衆や目撃者によって確認された一連の出来事は、後年カトリック教会やローマ教皇庁も公式に「聖母の出現」であることを認めている。
まずは子どもたちと聖母マリアたちが出会った経緯から紹介しようと思う。
子どもたちが聖母マリアと出会う前兆として、ファティマに少年の姿をした平和の天使を名乗る存在があった。少年の見た目は14歳~17歳くらいであった。
子どもたちはそれぞれ、ルシア・ドス・サントス、フランシスコ・マルト、ジャシンタ・マルトといい、3人共に両親共にカトリック教徒であったという。フランシスコはジャシンタの兄であり、ルシアとフランシスコ達は従兄妹である。
子どもたちはこの少年から「祈りの言葉」や「祈りの方法(額を地面に付ける動作)」などを教えてもらっていた。少年の姿をした天使は、1916年の春頃から何度か子どもたちの元へ訪問していたと言われている。
※ルシア自身の回顧録によると、この天使は「幻視」であったとされている※
予言を受けた2ヶ月前の1917年5月13日、子どもたちの前に初めて聖母マリアが現れた。
初めて姿を見せた聖母マリアらしき人物は「毎月13日に会いに来るように」という願いを子どもたちに言い残した。この初めての対話では、ルシアが聖母マリアに対して「どこから来たのか」や「自分たちは天国へ行けるかどうか」を聞いたところ、ロザリオの祈りを繰り返すように言われたという。
ファティマの予言は7月13日のものとされているが、ルシア達3人と聖母マリア達の対話ではルシア以外の2人を先に天国へと連れて行くことを約束されていた。
この約束はある意味「予言」ともされ、言葉の通り、フランシスコは10歳、ジャシンタは9歳の若さで亡くなっている。
また、妹ジャシンタが亡くなった経緯に関しては少し不思議なエピソードがある。
ファティマの予言から1年後、1918年に流行ったスペイン風邪(現代のインフルエンザ)が原因でフランシスコ、ジャシンタは亡くなっている。2人共に入院と治療が必要だったが、予言によって受けた聖母マリアの言い付けを守り教会に通って祈りをするために病院での治療を受けなかったと言われている。
病院での延命を断っていた兄は自宅で亡くなり、ついに両親が妹のジャシンタを延命治療の為に強制的に入院させることにした。何ヶ月もの期間を祈りのため治療していなかった病気は肋膜炎に進行しておりジャシンタは手術を受けることに。心臓などにも影響があったことから麻酔を使わずに肋骨2本を切断するという想像を絶するような苦しみを味わった。まだたった9歳の女の子が、である。
それでもジャシンタは祈ることを辞めず、1920年の2月19日、病院の司祭に告解をし、「翌日自分は1人でしぬだろう」ということを話した。司祭は症状は軽くなっており翌日には治るであろうと返したが、ジャシンタは告解の翌日、病院の中にも関わらず看護師などもいない時に1人で亡くなった。自身の予言がそのまま現実になったのだ。
ルシアの手記によるとジャシンタは1918年の10月には既に「自分は1人で苦しんで亡くなる」という予言をしていたという。
話が少し戻るが、ファティマの予言は冒頭に書いたように1917年7月13日にルシア達3人が聖母マリアから告げられた3つの予言のことを指す。
3人は3回目の対峙においてまず1瞬の間に死後の世界、それも地獄という光景を見せられたという。ルシアやフランシスコ、ジャシンタが頑なに祈りを続けていったのは、この時に見せられた光景から贖罪の必要性を感じたからであると言われている。
そして具体的にファティマの予言については以下のような内容であった。
第一の予言で語られた内容は「第一次世界大戦の終結」「ロシアの混乱」が主なものであった。
聖母マリアはロシア帝国の運命が人々の信心によって左右されると予言していた。結果的にこの予言は的中し、第一次世界大戦は終結を迎えたものの、ロシア帝国は国内の社会運動によって崩壊しソビエト連邦の誕生に至ることになった。
第一の予言と同じ時にルシア達は第二次世界大戦の勃発も予言として受けていた。
具体的には予言の当時に「人々が主に背くままであれば、次の教皇の在位期間にもっとひどい戦争が起きる」というものである。ここで言う次の教皇とはピウス11世のことを指している。
ピウス11世がローマ教皇に在位していたのは1922年初頭から自身が亡くなる1939年2月10日であり、近代史的には第二次世界大戦の7ヶ月前に亡くなっており、予言は一見外れたかのように見える。
しかし、第二次世界大戦のきっかけになったナチスドイツによる戦争計画は1937年の11月にはヒトラーによって確定されていた。
つまり戦争自体の意思は既に予言期間中の中にあったいえる。つまり第二の予言は的中していたのだ。
上記2つの予言と同じ時にルシア達は第三の予言と言われる未だに全容の公開されていないと言われる予言を託されていたという。そしてその内容は1960年に公開するようにとも聖母マリアは告げたらしい。
しかし60年代のローマ教皇であったヨハネ23世はその内容を見て絶句し、再度封印されることになった。
次の教皇となったパウロ6世もその中身を確認したところ昏睡状態に陥ったとされている。
様々な経緯を辿って2005年に教皇庁は公式に第三の予言を公開したものの、その真偽については様々な説があり、第三の予言の真相は今もって不明であるとも言われている。