【邪馬台国】天照大御神が卑弥呼である10の理由:第1回

邪馬台国といえば、古代日本史上最大のロマンにして最大の謎です。

邪馬台国はどこにあったのか? 大和朝廷(天皇家)との関係は? 卑弥呼の正体は? 正しい読み方は? なぜ日本神話に登場しないの?

……などなど、謎がてんこ盛り。江戸時代から論争がされるも、その真相は未だにはっきりしない――と思っている方が多いでしょうが、実はほとんどの謎は今や明かされているのです。

今回は、『民俗学とメタ視点で読み解く古代日本史』と題して全7回の連載で、日本人のルーツから邪馬台国、大和朝廷、そして日本の誕生まで――古代日本の謎を全8回の連載で解き明かしていきたいと思います。(前半で既存の説を紹介し、後半では自説で古代史の謎を解説)

第1回は初心者にもわかりやすく、面白いネタということで、卑弥呼(ひみこ)と天照大御神(アマテラス)の謎を解説!

日本神話の最高神にして天皇家の先祖神(皇祖神)の天照大御神は、邪馬台国の女王卑弥呼がモデルだという説があります。有名な話なので、聞いたことがある人も多いと思います。

今回は従来の説に民俗学的な視点を加え、10の理由から卑弥呼が天照大御神のモデルになった理由を解説していきます。しかしこの説には、ある重大な問題点があります。その解決も最後に行いますので、既にこの説を知っている方も、目を通していただけると面白いと思います。

序:日本古代史になぜ民俗学が必要なのか?

最初に、なぜ民俗学なのか? そもそも民俗学とはなんぞや? という話から。

本筋には関係がないちょっと小難しい話になりますので、読み飛ばしてもらってもかまいません。

古代日本は謎に包まれています。その理由はなによりも、文献史料がないからです。文字がないので外国の文献や、遺跡から解き明かすしかないのですが、ここに文化や言語、宗教にDNAといったアプローチを加えれば、実はほとんどの謎の答えは用意されているんです

古代日本が謎に思えるのは、現代の学問の性質ゆえです。歴史学者は文献に書かれていないものは存在しないものとします。反対に考古学者は化学的なデータだけを尊重して、これと矛盾する文献は誤っているとします。この姿勢は正しいのですが、問題は各学問の交流が薄いことです。

歴史の教科書は、時代ごとに異なる専門家が執筆しています。そもそも日本では世界史と日本史は別の学問として習います。ですが本来は、過去の歴史や世界全体の歴史が絡んで日本の「歴史」がつむがれているはずです。これでは謎だらけで当然でしょう。

この問題は、歴史に限ることではありません。

古代ギリシアで誕生した「哲学」は、今の哲学とは違い、世界の謎を解き明かす「学問そのものを意味していました。しかし膨大すぎるために、数学、化学、物理学、心理学、言語学、歴史学……と派生していったのです。その結果、「専門家」が誕生したわけですが、今度は各学問が高度に専門化しすぎたせいで、Aの専門家は「Bの学問のことはわからない」という現象が発生してしまいます。

それに加え、学者の成果や実績は基本的にその学問(学会)でのみ得られますから、学者としての評価を求めれば求めるほど他の学問は無視されがちになります。もちろん、そうでない学者もたくさんいますが。

この結果として、現代の学問では物事の「本質」がわからなくなってしまったのです。歴史なんて、本来は文献史学も化学も言語学も地理学も神話学も文化学も人類学も生物学も、あらゆる領域の学問を総動員しなければ読み解けるはずがありません。とくに文献資料の少ない古代史では、こういったアプローチが必須です。

柳田国男(1875年-1962)

画像引用元:NHKアーカイブス NHK人物録

この日本の歴史学に異を唱えたのが、日本民俗学の創始者、柳田国男(やなぎたくにお)です。柳田は、文献に残っていない常民(平民)の民俗(文化)から、もうひとつの日本の歴史が組み立てられるとしました。

民俗学というと『遠野物語』河童などが有名なので、伝説や妖怪を研究する学問と思っている人が多いでしょう。しかし民俗学の目的は妖怪そのものを研究ではなく、各地や各時代の妖怪を比較して、それを生み出した当時の人々の心性や生活を解きほぐすことにあります。

民俗学では、伝承をそのまま受け取るのではなく、俯瞰的に解釈する「メタ視点」が必要不可欠です。さらに民俗学では、文献史料のように一目で明確に事実がわかる「クリアな資料」ではなく、伝承や民具といった解釈が分かれやすい「ぼやけた資料」を用います。

ですからフィールドワークによる民俗の採集と比較に加えて、文献史学人類学地名学神話学心理学といった近接領域の理解が欠かせません。

ゆえに民俗学は「複合の学」と呼ばれます。これこそ、日本古代史に必要なアプローチではないでしょうか?

『遠野物語』で有名な遠野郷

ちなみに近年はこういった歴史学の問題が見直されているのか、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』やジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』といった、複数の学問の英知を結集させた歴史書が評価されていますね。日本の文部科学省も、2022年から「歴史総合」という新科目を、必修科目として導入するとしています。これは日本史と世界史を融合した学科です。

前置きが長くなりました。

今回は民俗学を専攻した筆者が、民俗学の視点と方法論で日本人のルーツや邪馬台国と大和朝廷といった、古代日本の謎をひも解いていきたいと思います。

しかし民俗学の方法論の問題は、あくまで「解釈」であるということです。

とはいえ「科学」には本来、絶対解はありません。「批判」と「改定」が科学という思考の営みです。従来の歴史学でも「絶対の事実」はわかりませんし、「絶対の事実がわかる」と思い込むのは危険です。定説というのは毎年のように変わるものです。

ですから本連載で解き明かす古代史の謎は、あくまで解釈の一つです。色々な見方があると思いますので、皆さんも自分で歴史を推理してみてください。きっと面白いと思います。

天照大御神が卑弥呼である10の理由

まずは基本的なおさらいから……。

「邪馬台国」は、弥生時代の日本に存在したとされるクニです。現在は一般的に「やまたいこく」と読まれています。邪馬台国の女王が卑弥呼(ひみこ)」ですね。

そして卑弥呼は、倭国(当時の日本)の連合国家の王でもありました。

当時の日本にはたくさんのクニがあり、それらのクニをまとめあげたのが、邪馬台国の卑弥呼だったということですね。

しかし当時の日本に、文字はありません。邪馬台国や卑弥呼は、中国の歴史書『三国志』の中にある『魏書』の「東夷伝」の「倭国条」で紹介されています。わかりにくいので、これを日本では一般に『魏志倭人伝』と呼びます。

ちなみに邪馬台国は『魏志倭人伝』(3世紀末に成立)以外にも、『後漢書』(5世紀)や『旧唐書』(10世紀)など他の中国の文献にも登場しますが、『魏志倭人伝』が初出なのでもっとも重視されています。

天照大御神 歌川国貞画(1857)

邪馬台国の比定地(場所)についての謎解きは第2回でおこなっています。

なお邪馬台国は、日本の歴史書や日本神話には登場しません。

その日本神話における最高神(つまり日本でもっとも偉い神様)が「天照大御神」です。「あまてらすおおみかみ」と読みます。「天照大神」や単純に「アマテラス」と書かれることもありますね。

天照大御神は太陽を神格化(今でいう擬人化)した神様で、神話によれば、天皇家の先祖であるとされています。そのため「皇祖神」とも呼ばれます。

令和への改元と退位にともなって、上皇・上皇后両陛下が天照大御神が祀(まつ)られている伊勢神宮に参拝したのは記憶に新しいですね。

「天照大御神のモデルは卑弥呼」という説があります。

白鳥庫吉という学者が明治時代にはじめて指摘し、現在でも安本美典氏などの古代史研究家によって支持されています。

筆者もこの「天照大御神=卑弥呼」説を唱えておりますが、この説には欠陥ともいえる重大な問題が含まれています。そういった点も踏まえて、再検証していきましょう。

天照大御神が卑弥呼である理由①名前が似ている

「天照大御神」という名は、そのまま太陽神であることを示していますが、別名があります。

それが「大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)」で、神社によっては大日女尊(おおひるめのみこと)や大日女(おおひめ)とも書かれています。

最初の「大」と最後の「貴(むち)」は尊い神を表す表現で、他には「大己貴命(おおなむちのみこと)」といった使い方をしますね。

問題は「日孁(ひるめ)」です。

伊勢神宮ではかつて、太陽神に仕えた巫女(斎宮)を「日女(ひるめ)」と呼びました。「る」は助詞「の」の古語で、「め」は女・妻を指す古い日本語です。

「め」という語に「巫女」という意味はありませんが、巫女は本来「神の妻」を意味しました。

天照大御神の別名にも「大日女尊」「大日女」があるため、同様に「日の巫女」「日の女神」という意味ではないかとされています。

では卑弥呼はどうでしょうか。

先にも書きましたが、卑弥呼は『魏志倭人伝』での名前です。陳寿という官僚が、倭国(日本)に行った人の話を聞き、それをまとめたのが『魏志倭人伝』です。

つまり「卑弥呼」という漢字は陳寿が決めたのです。

江戸時代の日本人が、アメリカ人のことを「メリケン」と呼んでいたことは有名です。これはアメリカ人の「American」という言葉が正しく聞き取れなかったからです。

当時の倭人(日本人)と中国人とのあいだでも、完璧な発音が伝わっている可能性は低いとみるべきでしょう。卑弥呼は、漢字も読み方もはっきりしていないのです。

そのため「日巫女(ひみこ)」「日御子(ひみこ)」「日女子(ひめこ)」「姫子(ひめこ)」「日向(ひむか)」「日女御子(ひめみこ)」などの説があるのですが……。

日巫女「日の巫女」という意味になり、また日御子なら「日の女神」になります。大日孁貴の「日の巫女」、「日の女神」と同じですね。

そして『魏志倭人伝』では卑弥呼を「鬼道に事え能く衆を惑わす」と書いています。「鬼道」は呪術やシャーマニズムを表しますから、卑弥呼は巫女のような宗教者だったとわかります。

さらに倭国は稲作と漁労を生業にしていたと書いてあります。稲作農耕では太陽が重要になるため、稲作民は太陽信仰を持つことが多いのです。

つまり、卑弥呼は太陽信仰に関係する宗教者だった可能性が極めて高いといえましょう。

なお倭国と稲作と太陽信仰については、第3回でくわしく述べます。

天照大御神が卑弥呼である理由②太陽神と女神

天照大御神 春斎年昌画(1887)

天照大御神の別名が「日女(ひるめ)」であったように、天照大御神は古くから「女神」であると解釈されました。

しかし日本神話において、明確に「女神」であると書かれた箇所はありません。

ただ『日本書紀』ではスサノオにと呼ばれていますし、スサノオとの誓約(うけい)のシーンでは女性の髪形が描かれています。他にも機織り部屋で仕事をするなど、女性と読み取れる記述が多いことから女性と解釈されているのです。

ちなみに中世以降、神道と仏教の習合が進むと、天照大御神は大日如来仏」と同一視されるようになりました。それからは男神とみられる例もありましたが、日本神話においては一貫して女神として描かれています。

しかしこれは奇妙なことです。女神の太陽神というのは、世界的にみると非常に珍しいのです。

有名どころではギリシア神話の「アポロン」や、エジプト神話の「ラー」などはすべて男神ですし、中国の陰陽思想でも、男性性を「陽(太陽)」、女性性を「陰(夜)」で表します。

ギリシア神話の「アルテミス」や、ヨーロッパから西アジア広域で信仰された「大地母神」のように、女神は大地(夜)の神であることが多いのです。

アポロンとダブネー

この謎は、天照大御神のモデルが卑弥呼だからと考えれば納得できます。

しかし、ここで重大な問題があります。それは、『古事記』や『日本書紀』成立以前の日本では、太陽神は男神だった可能性が高いということです。

伊勢神宮で太陽神に使える巫女を「日女(ひるめ)」と呼んだというのは先に書きましたが、これは「太陽神の妻」なんです。つまり、伊勢神宮で古くから祀られていた太陽神は男神ということになります。

また歴史学者の岡田精司氏は、その本来の太陽神は、今では「高木の神」と呼ばれる「高御産日神(タカミムスビ)」だとしています。伊勢神宮で太陽神が祀られた「荒祭宮」に、タカミムスビとの関連を示す構造や儀式が残っているからです。

さらに『日本書紀』のはじめに描かれる「国生み神話」では、男神のイザナギを「陽神(をかみ)」、女神のイザナミを「陰神(めかみ)」と呼んでいます。先に書きましたように、陰は夜を表します

イザナギとイザナミ 小林永濯画(1885)

他にも『隋書』の第一回遣隋使では、「俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す」とあります。これは、「倭王(兄)は日の出前に政治をし、日の出になると弟に任せ(、退出した)」という意味になります。遣隋使は聖徳太子の時代なのですが、この時代には「日=弟」という象徴がみられます。

そもそも天皇は原則「男系男子」継承です。その天皇家の先祖神が女神というのは奇妙です

これらの理由から、大和朝廷における本来の太陽神は男神で、日本神話が編さんされた天武・持統朝期に女神にすり替えられたという説があるのです。

しかし筆者は、天皇家の先祖神・太陽神が本体は男神だったにもかかわらず、日本神話では女神とされた点にこそ、卑弥呼がモデルとなった証拠だと考えています。

この卑弥呼と女神と大和朝廷の問題については、第6回第7回でくわしく解説します。なお筆者は「天照大御神のモデルは卑弥呼だが、天皇家の先祖神ではない」という説を唱えています。

天照大御神が卑弥呼である理由③天岩戸隠れと死と日食

天岩戸隠れ 歌川国貞画(1887)

「天岩戸隠れ」神話を知っていますか?

高天原(たかまがはら)で乱行悪行の限りを尽くしたスサノオノミコト天照大御神は激怒し、「天岩戸(あめのいわと)」という洞窟にこもります。すると天から太陽が消え、世界はに包まれ、さまざまな災いが起こりました。

そこで神々が集まって天照大御神を洞窟から呼び戻し、世界に再び光が戻った――というお話です。

この神話は、天照大御神の死を描いているという解釈があります。これは「岩戸にこもる」という表現が、古代日本では「皇族の死」をあらわすからです。

たとえば万葉集には、「豊国の 鏡の山に石戸たて 隠りにけらし 待てど来まさず」という歌があります。ここでは河内王の埋葬「岩戸に隠(こも)る」と書いています。また柿本人麻呂の高市皇子への挽歌(死者への歌)では天武天皇の死を「磐隠ります(いわかくります) やすみしし 我が大君」と表現しています。

これは古来の墓が石の棺で、「岩戸」と呼ばれていたことに由来します。

そもそも「隠れる」という語が「死」を意味することは、高校で古文を習った方はご存知だと思います。

『古事記』ではスサノオが暴れた際に、「稚日女尊(ワカヒルメ)」という機織り女の神に梭(ひ・機織りの道具)が刺さってんでしまうのですが……。この神を祀る神戸市の生田神社では、稚日女は「若く瑞々しい日の女神」という意味で、天照大御神の「幼名」と説明しています。

つまり、天照大御神は死んだと伝えている異説もあるのです。

しかも『日本書紀』の場合は稚日女は登場せず、梭は天照大御神に刺さったと書いてあります(ただし死亡はしない)。これらの伝承の揺れは、天照大御神が死亡した史実を反映しているのではないでしょうか。

さらに注目すべきは、天岩戸隠れ以前と以降では、天照大御神の性質が異なっているという点です。

天岩戸隠れ以前の天照大御神は、まさに最高神として神々に命令を下す姿が描かれているのですが、天岩戸から再び出てきてからは、高御産日神(タカミムスビ)という神と一緒に行動し、それどころかタカミムスビの命令で他の神々が動いているのです。

たとえば『古事記』では、天岩戸以前に天照大御神が1人で行動している回数は16回なのですが、天岩戸以降では6回です。天岩戸以前、タカミムスビとペアでの行動は0回ですが、以降は7回。加えてタカミムスビが神々に命令を下す回数が2回もあります。決定の半数以上にタカミムスビが関わっています

それどころか『日本書紀』では、天岩戸以降、天照大御神の姿は一度も描かれていません。

「〇〇の神は天照大御神の子である」といった説明や分注に名前は登場しますが、意思をもって行動している描写はありません。かわりにタカミムスビが最高神として他の神々を動かす描写は天岩戸以降、18回もあります

まるで天岩戸で、天照大御神が消えたような書かれ方です。

タカミムスビとは、先に説明した伊勢神宮に天照大御神以前に祀られていたとされる男神の太陽神です。岡田精司氏はこの現象を、天岩戸隠れにおいて天照大御神が死に、タカミムスビが実質の最高位に入れ替わっていると説明しています。

しかし近代日本を代表する哲学者の和辻哲朗氏は、これは「天照大御神の『モデル』が死に、別のものに入れ替わった歴史」を反映していると語ります。

では卑弥呼の死について見てみましょう。

「卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩。徇葬する者奴婢百余人。更えて男王を立てるも国中服さず。更に相誅殺し、時当に千余人を殺す。復た卑弥呼の宗女壹與、年十三なるを立てて王と為す。国中遂に定まる」(『魏志倭人伝』)

卑弥呼の死後、男の王が代わりに就いたが民が従わず、内乱状態になり、1000人もの人が死にました。最終的に卑弥呼の一族である13歳の少女「台与(「とよ」あるいは「いよ」)」が王になり、国は治まったといいます。

  1. 卑弥呼の死
  2. 邪馬台国の内乱
  3. 台与が王位に就く
  4. 内乱が治まる
  1. 天照大御神が岩戸にこもる
  2. 世界が闇に包まれ荒れる
  3. 岩戸から天照大御神が出てくる
  4. 荒廃した世界が治まる

卑弥呼の死と天岩戸隠れを並べてみると、たしかに符合が感じられます。天岩戸から出てきた天照大御神は、卑弥呼を継いだ台与だったのですね。

さらに台与は13歳の少女ですから、宗教者としての才能はあっても、実際の政治には、大人の補佐役がいたと思われます。

こうした歴史を反映しているのなら、天岩戸以降の天照大御神がタカミムスビと行動を共にしているのにもうなずけます。

さらにもう一つの根拠が、「日食」です。

天照大御神が岩戸にこもると、太陽が消えて世界は闇に包まれたといいます。これは皆既日食のことでしょう。

国立天文台によると、247年の3月24日と248年9月5日に日本で日食が起こったことがわかっています。天文学者の斎藤国治氏は、247年の日食は部分日食だが、248年のものは、北部九州に限りほとんど皆既日食に近い日食だったことを突き止めています。

そして卑弥呼の死は『魏志倭人伝』によれば、247年か248年なのです。偶然とはとても思えません。

皆既日食

太陽神に仕えた卑弥呼の死皆既日食が重なれば、古代人が相当のショックを受けたことは容易に想像できます。

ただしNASAの計算では248年も部分日食だとしており、断定はできません。今後の発展が期待されます。

なお天岩戸隠れ神話は、民族学者の大林太良氏は東南アジアにみられる「日食神話」の一形態だとしています。民俗学者の折口信夫氏は冬至説を唱えています。

他に火山説などもありますが、これらの説では天岩戸以降における天照大御神の性質の変化を説明できません

なお、天岩戸にこもった天照大御神を岩戸から出すために、「天鈿女命(アメノウズメ)」という女神が全裸で舞を踊ります。そして天照大御神が岩戸から顔を出した~という話があります。

アメノウズメは芸能の神であり、つまり、アメノウズメの舞は日本最古のストリップショーである。よって天照大御神は男神である――という解釈があるのですが、筆者はこれがストリップの起源ではあっても、ただの性的娯楽ではなく、死んだ天照大御神(卑弥呼)の鎮魂(ちんこん)の儀式(つまりお葬式)だと考えています。

根拠は2つあります。『魏志倭人伝』には、「倭国では人が死ぬと、喪主は号泣するが、他の人々は酒を飲んで歌や舞をする」と、当時の葬送儀礼が描かれています。

現在の日本で死者にお経をあげるように、弥生時代には歌と舞で、死者の魂を鎮(しず)めようとしたのです。アメノウズメの舞は、天照大御神のお葬式を表しているといえます。

2つめの根拠は、「鎮魂祭」です。

鎮魂祭は奈良時代から宮中(天皇家)で行われている儀式で、現在では11月、勤労感謝の日の前日に行われています。天皇の魂が身体から遊離しないように鎮めて繋ぎとめることで、その長命を祈る儀式です。

いわゆる死者の魂を慰める、現代の「鎮魂」とは意味合いがかなり変わっているのですが……『古語拾遺』という平安時代の文献に、鎮魂祭の由来が書かれています。

「凡そ鎮魂の儀は、天鈿女命の遺跡なり」……つまり鎮魂祭の起源は、天岩戸隠れ神話のアメノウズメの舞にある、というのです。実際に古代の鎮魂祭では、アメノウズメの子孫とされる「猿女君」という女性が舞を踊りました。

天岩戸で鎮魂の儀式が行われたということは、天岩戸で天照大御神が死んだと考えるのが自然ではないでしょうか?

天岩戸隠れ神話と鎮魂祭については、第7回でくわしく謎解きしています。

天照大御神が卑弥呼である理由④夫がいない

『魏志倭人伝』には「年已に長大なるも夫婿なく」と書いてあります。卑弥呼は高齢でしたががいませんでした

これは女性のシャーマンに時おり見られる慣習です。巫女は「神の妻」なので、人間の配偶者はいらないのです。

そして天照大御神も夫はいません。子どもはいますが、スサノオとの誓約(うけい)という儀式の末に生まれた神々なので、男女の交わりはありません。

これは卑弥呼をモデルにしているから、と考えれば合点がいきます。

天照大御神が卑弥呼である理由⑤弟がいる

スサノオ 歌川国輝画

『魏志倭人伝』には「男弟ありて、佐けて国を治める」と書いてあります。卑弥呼には政治を補佐するがいました

そして天照大御神にもスサノオノミコトという弟がいました。

先の天岩戸隠れにおいても書いたのですが、スサノオははじめ天照大御神と対立します。しかし天岩戸以降は、天照大御神の命令で葦原中国(あしわらのなかつくに=日本列島のこと)を治めるようになるのです。

天照大御神が高天原(天)を、スサノオが葦原中国(地)を治めた様子は、卑弥呼(宗教)と弟(政治)の統治スタイルを思わせます。

天照大御神が卑弥呼である理由⑥男性の政治補佐

これもすでに書きましたね。天照大御神にはタカミムスビという補佐役の男神がいます。

そして卑弥呼には、政治を補佐する弟がいました。

天照大御神が卑弥呼である理由⑦食生活

伊勢神宮の神饌

画像引用元:伊勢神宮公式ウェブサイト

これは筆者独自の説なのですが(提唱済みでしたら申し訳ないです)、天照大御神と卑弥呼は食生活が似ているといえます。

日本では神へのお供えもの(食事)を「神饌(しんせん)」と呼びます。伊勢神宮では天照大御神に、毎日朝夕の2回にわたって神饌を供えます。

天照大御神はまるで人間のように食事をする神だという認識が、奈良時代よりありました。さらに注目すべきは神饌の内容です。

、そして海産物です。米塩水は一般的な神棚にも祀られますが、注目すべきは海産物です。さらに、アワビをもっとも重要としています。これらは天皇即位のときの大嘗祭(だいじょうさい)や新嘗祭(にいなめさい)でもささげられます。

たとえば神饌に鳥肉や獣肉をささげる神社もあるのですが、それは狩猟採集民の氏神だからなんですね。長野県の諏訪神社はウサギの肉をささげることで有名です。

諏訪大社

日本人は米を主食とする稲作農耕民ですから米はごもっともでしょう。塩や酒は「清め」の効果をもちます。

神饌は、その共同体の信仰に関連する食品が選ばれます

神道では動物の血肉を避けるべき「穢れ(けがれ)」として肉食を禁じていたため、相対的に穢れていない海産物をささげたという見方もありますが、伊勢神宮の祭儀が整った天武~持統天皇期(7~8世紀)では、まだ天皇をはじめ貴族社会で肉食がたしなまれていました。

天武天皇の「肉食禁止令」は誤解されやすいのですが、あくまで仏教の力で天皇の病気を治すための臨時の禁止令です(仏教は動物の殺生を禁じているため)。肉食=穢れの観念が形成されたのは9世紀後半からです。

また伊勢の特産物が魚介類だからという解釈も多いのですが、『大和姫命世記』には倭姫命(やまとひめのみこと)がわざわざアワビを神饌に指定する事績が書かれていたり、『古事記』にもアメノウズメという神が魚介類を天照大御神の神饌にする縁起談(由来神話)が書かれています。

日本神話の中で、神饌の縁起談がわざわざ書いてあるのは魚介類だけです。これはアワビは天照大御神or天皇家と関係があると見るべきでしょう。

しかし天皇家と海産物にとくに深いかかわりはありません。そもそも大和(奈良)は内陸です。

ところで『魏志倭人伝』には、倭人(日本人)の食生活が描かれています。「やカラムシを栽培し」「倭の水人は沈没してを捕るを好み、文身は、亦、以って大魚、水禽を厭う」

倭人は稲作を行ない、また魚やアワビを潜水漁法(素潜り)で獲っていたといいます。さらに海難の害を避けるために、入れ墨をしていたというのですが、これは安曇野族などの海人族(海上の移動に優れ、漁労で生活していた人々)に伝わる風習と同じです。

『魏志倭人伝』に書かれている倭人は、稲作と漁労で生活していました。これは「邪馬台国は九州か近畿か」という問題にも関わってくるのですが、筆者は「魏志倭人伝に書かれている倭国と邪馬台国」は九州にあったと考えています

また邪馬台国も、稲作漁労民である海人族の国でした。海人族は太陽信仰をもっています。稲作漁労文化と太陽信仰をもつ国の長が卑弥呼だったのです。

であれば、その卑弥呼をモデルにした天照大御神の神饌に、米と魚介類が選ばれたのは自然でしょう。

稲作漁労と海人族については、第3回でくわしく述べます。

天照大御神が卑弥呼である理由⑧年代の一致

これは「数理文献学」という、統計分析の手法で邪馬台国の謎を解かんとする安本美典氏の提唱した説です。

天照大御神と卑弥呼が活躍していた(と思われる)年代が一致する、というのですね。以下、安本氏の文章とグラフを引用します。

天皇一代の平均在位年数が、10~11年程度。そして一代さかのぼるごとに、活躍年代や没年などが、およそ10年~11年さかのぼるものとして、ジャックが豆の木をのぼるように、古代の空にむけて、年代のハシゴをのぼって行く。

すると、初代神武天皇の活躍年代は、280年~290年頃となる。すなわち、神武天皇以下、すべての天皇が実在したものと仮定しても、大和朝廷の成立は、邪馬台国の時代以後のこととなる。『古事記』、『日本書紀』によれば、天照大御神は神武天皇の5代前の神とされている。神武天皇から、5代=50年ほどさかのぼれば、天照大御神の活躍年代は、230年~240年ごろとなる。つまり卑弥呼の時代に、おおよそ重なるのだ。

いま、天皇の代を横軸にとり、天皇の没年を縦軸にとってグラフを描くと、「天皇の代と没年から見る諸説の年代」のようになる。天皇の平均在位年数が、時代が下るにつれ、しだいに長くなっているので、曲線は、下に凸形(下に突き出る)になっている。
すると、「卑弥呼=天照大御神説」が、史的な事実を示す実線の、きわめて自然な延長上にのっているようにみえる。ほとんど、一目瞭然のようにみえる。

統計学的に、年代推定の誤差の幅をつけた形で、卑弥呼ではないかという説のある4人の人物が活躍していた時期を示せば、下の図のようになる。すなわち、卑弥呼の時代と重なるのは天照大御神だけなのである

出典:歴史人公式ウェブサイト

ただし同じく理数系の古代史家である坂田隆氏は、安本氏の統計分析やデータの選択に問題があることを指摘しています。古代氏族研究の第一人者である宝賀寿男は回帰方程式を用いて、神武天皇の在位時期は西暦175~194年頃としています。卑弥呼よりだいぶ前の時代となります。

このように面白い着眼点ではありながらも、問題を多々含む説ではあります。あくまで参考の1つとしておいたほうが無難でしょう。

そもそもこの説は、初代神武~開化天皇といった、実在性が疑われている天皇や、ニニギノミコトといった神武天皇の先祖神(天孫)が実在したことを前提とする説です。なお著者は実在説と非実在説の中間をとっています(第7回でくわしく述べます)。

天照大御神が卑弥呼である理由⑨天皇家のルーツ

何度も書いていますように、天照大御神は天皇家の先祖神(皇祖神)とされています。

もちろん権威付けのための解釈で、本当に神が祖先なわけはありません。しかし、「天皇家のルーツは天照大御神であるとされたという事実」が重要なのです。

天皇は原則「男系男子」継承の父権社会(男性に権力がある)です。その天皇家のルーツが女神である天照大御神というのは奇妙に思えます

筆者は、『魏志倭人伝』に描かれた邪馬台国は九州にあったが、その後奈良県の大和に移動したという「邪馬台国東遷説」の立場をとっています。

邪馬台国が大和朝廷の前身であったのなら、自然に、天皇家のルーツ卑弥呼に求められます。

ただし上でも触れたように、「本来の天皇家の先祖神である太陽神」は男神であった可能性が高いという事実と矛盾します。

この問題についての納得のいく経緯は第6回第7回で、東遷説の根拠やなぜ東遷が起こったのかは、第2回でくわしく紹介します。

天照大御神が卑弥呼である理由⑩宇佐神宮に墓がある

宇佐神宮本殿

大分県にある宇佐神宮には、卑弥呼の墓があるという説があります。そのため邪馬台国は宇佐にあったと唱える人も多いです。

筆者も、卑弥呼の墓は宇佐神宮にあると考えています。ただし邪馬台国の場所は宇佐から離れた福岡県に比定しています。位置については第2回以降をご覧ください。

宇佐神宮は、天皇家のルーツがあることを示す「二所宗廟(にしょそうびょう)」の1つに選ばれています。もう1つは伊勢神宮です。

さらに宇佐神宮の主神は「八幡大神(応神天皇)」なのですが、なぜか八幡大神よりも高い位で祀られている正体不明の女神「比売大神がいます。この比売大神の正体は天照大御神という説があります。

つまり、二所宗廟の伊勢神宮と宇佐神宮は、どちらも天皇家のルーツである天照大御神=卑弥呼を祀っていると考えられます。

宇佐神宮の謎については、第5回でくわしく紹介します。

「天照大御神の正体は卑弥呼」説の批判と問題点:参考文献

第1回からボリュームのある記事になってしまいました。また「民俗学とメタ視点で読み解く」と銘打っておきながら、半分以上は既存の説の紹介になってしまったことをお許しください。

筆者の自説を中心に展開していくのは第3回以降になります。

このように、天照大御神と卑弥呼にはとても偶然では済ませられないほどの共通点や一致がみられます。天照大御神のモデルは卑弥呼であると考えるのが妥当な気がしてきませんか?

ただし天岩戸隠れ神話を参照するに、正確には、卑弥呼に第2の王女である「台与」を足した存在が天照大御神だと考えられます。

しかしこの天照大御神=卑弥呼説には、欠陥ともいえる重大な批判点・問題点が3つあります。

  1. 天照大御神は古くは男神であった可能性が高い。よって卑弥呼とは無関係である。
  2. 卑弥呼が天照大御神のモデルなら、なぜ『日本書紀』などにそう記されていないのか。日本神話は天皇の権威付けの歴史書であり、ならば『魏志倭人伝』に載っているほどの古代王国を載せないのは不自然である。
  3. 『日本書紀』には、卑弥呼と神功皇后を結びつけるような記述がある。朝廷は卑弥呼を神功皇后に比定していたので、天照大御神は無関係である。

どの批判も、説自体の根幹がゆらぐレベルの致命的な問題ですね。しかし筆者はこれらの問題点にこそ、邪馬台国と大和朝廷の謎を解くカギであると考えています。

これらの問題の答えもしっかりと用意していますので、興味のある方は第2回「九州と近畿の地名が一致?邪馬台国東遷説と神武東征【筑後山門】」もぜひご覧ください。

本記事執筆にあたっての参考文献リストは、記事の一番最後に載せてあります。今回は最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

参考文献

「国立天文台報」〈第13巻 第3・4号〉2010
「国立天文台報」〈第14巻 第3・4号〉2012
『神社と古代王権祭祀』1989 大和岩雄
『異人その他―他十二篇』1994 岡正雄
『古代王権の祭祀と神話』1970年 岡田精司
『卑弥呼をコンピュータで探る』1985 坂田隆
『伊勢神宮と出雲大社-「日本」と「天皇」の誕生』2009 新谷尚紀
『倭国伝 全訳注』2010 藤堂明保 他
『巨大古墳と古代王統譜』2005年 宝賀寿男
『「神武東征」の原像』2006年 宝賀寿男
『古代伝承と宮廷祭祀』1974年 松前健
『古代信仰と神話文学』1988 松前健
『塩の道』1985 宮本常一
『日本文化の形成』〈上・中・下〉1994 宮本常一
『邪馬台国への道』1967 安本美典
『卑弥呼の謎』1972 安本美典
『雪国の春』1928 柳田国男
『海上の道』1961 柳田国男
『日本の民俗学』 2019 柳田國男
『日本古代文化』1920 和辻哲郎

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    神話に魔法、UMAにUFO、超能力に超古代史、最新科学に都市伝説まで、オカルトならなんでもござれのWebライター。「日々にロマンを。毎日を豊かに。日常を非日常に」をテーマに書いています。学生時代の専攻は民俗学。