『東日流外三郡誌』は偽書?本物である3つの証拠

『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』という謎とロマンに満ちた古文書は知っていますか?

『東日流外三郡誌』の内容については前回くわしく紹介しましたので、興味のある方はぜひ前回の記事から読んでほしいのですが……要約すると、邪馬台国の王である「ナガスネヒコ」が東北に逃れ、津軽で「アラハバキ族」を結成して大和朝廷と戦争をしていた……というのです。

1983年に出版された『東日流外三郡誌』は、歴史学界や考古学界で大きな話題を呼びましたが、現在では古文書ではなくねつ造された偽書であることが確実視されており、「戦後最大の偽書事件」として知られています。

しかし『東日流外三郡誌』の内容がすべてが創作とすると、それはそれでつじつまがあわないということは、意外と知られていません。つまり、『東日流外三郡誌』は本物だという可能性があるのです。

今回は『東日流外三郡誌』の信憑性について紹介し、偽書なのか? 本物なのか? 筆者が注目した3つのポイントを紹介します。

『東日流外三郡誌』は偽書?本物?

『東日流外三郡誌』は、和田喜八郎氏が青森県の自宅天井裏から発見した古文書で、先祖の写本とされています。

しかしその筆跡は発見者である和田喜八郎のものと一致しており、また和田喜八郎の死後には自宅の調査が行われ、紙を古紙に偽装する薬剤が発見されました。

これらの理由から、現在では『東日流外三郡誌』は偽書(ねつ造)であることが確実視されています。

しかし古田武彦氏をはじめとし、真書(本物)だと信じた著名な古代史研究家や歴史家は多く公共機関の資料として用いられたこともあり、アラハバキをまつっている神社の中には今でも、ナガスネヒコや東日流王国のことを書いているところが多いほどです。

そして実際、『東日流外三郡誌』の内容がすべてフィクションだとすると、それはそれでつじつまが合わない点がいくつか見つかるのです。つまり、『東日流外三郡誌』が古文書ではない偽書だとしても、そこに書かれた内容には「本物」が含まれている可能性があるのです。

ここからは、筆者が『東日流外三郡誌』が本物であるように思える3つの証拠を紹介します。

『東日流外三郡誌』が本物の証拠①日本中央の碑

青森県に、「日本中央の碑(いしぶみ)」という石碑があることは知っていますか?

坂上田村麻呂蝦夷(エミシ)たちを征伐して東北までやってきた際に、「日の本の真ん中まで制圧した」ということで、田村麻呂が岩に「日本の中央」と刻みました。そのような石碑があることは『袖中抄』などいくつもの文献に残されています。

東北である青森が「日本中央」というのはおかしな気がしますが、これには当時の日本が西の「日本(ニホン)」と東の「日の本(ヒノモト)」という2つの国に分かれていたからだとする説があります。つまり正しくは「ひのもとちゅうおうのいしぶみ」と読むのです。

たとえば豊臣秀吉の手紙を読むと「小たはら(小田原)の事は、くわんとう(関東)ひのもとまでのおきめにて候まま、ほしころしに申つくべく候間、としをとり申しべく候」(1590年 5月1日)、「小たはらをひごろしにいたし候へば、大しゅ(奥州)までひまあき候問、まんぞく申におよばず候。にほん三ぶん一ほど候まま、このときかたくとしをとり候ても申つけ、ゆくゆくまでもてんか(天下)の御ためやきようにいたし候はん」(同年4月13日)などとあり、明らかに秀吉は「にほん」と「ひのもと」を区別して使っています

豊臣秀吉

この書簡によればニホンは日本列島全体の名称で、ヒノモトは宮城県から北の奥州あたりだとわかります。

おそらく大和朝廷(ニホン)によってヒノモト(東北)は制圧され、日本に併合されたのでしょう。しかし中世頃までの人々の意識では、東北はまだヒノモトだったと考えられます。

これは『東日流外三郡誌』に書かれていた、日本は大和朝廷(西)とアラハバキ族(東)に分かれて戦争をしていたが、アラハバキ族が敗北したという歴史と一致します。

ここで日本中央の碑に話を戻すのですが、ずっと文献上でしか存在が確認されていなかった日本中央の碑は、1949年6月21日にある農家の畑から見つかっています

しかしこの石碑は、現在ではさまざまな理由から偽物(贋作)であると考えられています。

1949年に発見された日本中央の碑

実は『東日流外三郡誌』には、「日本中央碑の絵」という図が載っています。しかしこれが1949年に発見された日本中央の碑とまったく異なるデザインなのです。

1949年の石碑は今でこそ贋作だと思われていますが、当時は本物の日本中央の碑だと思われていましたから、『東日流外三郡誌』が和田喜八郎の創作なら、そのデザインを踏襲するはずです。そちらの方が本物である傍証にもなるでしょう。

ではなぜ和田氏はわざわざ偽書作りのセオリーから外れた方法をとったのか。それは、和田家には本物の日本中央碑を記した資料が伝わっており、和田喜八郎はその資料をもとに「日本中央碑の絵」を書いたから……とは考えられないでしょうか?

『東日流外三郡誌』が本物の証拠②源義経=チンギスハン説

源義経像

源義経=ジンギスカン説は知っていますか?

藤原泰衡に攻められ、岩手県の平泉で自害したとされている源義経は実は死んでおらず中国大陸へ逃げて、なんとあのモンゴル帝国初代皇帝チンギスハンになったというのです。

有名なトンデモ説なので知っている人も多いかもしれません。今回はその根拠などはカットしますので興味のある方はぜひ調べてみてください。

そもそも室町時代の段階で、源義経は死んでおらず、蝦夷(北海道)に逃げ延びたという説が唱えられています。これが幕末の頃になると源義経=チンギスハン説に進化したのですね。源義経がいかに昔から人気だったかがわかります。

実は『東日流外三郡誌』にも源義経のことが書いてあります。源義経は実は死んでおらず、アラハバキ族の末えいである安東水軍の援助で、十三湊からモンゴルに渡った……というのです。

もし『東日流外三郡誌』が和田喜八郎の創作なら、和田氏は源義経=チンギスハン説の支持者だったということになります。

しかし、『東日流外三郡誌』ではチンギスハンについては一切触れていません。ここまで書くなら、「源義経はその後チンギスハンになったという説もある」

くらいは書かないと不自然でしょう

そもそも『東日流外三郡誌』を真書(本物)だと見せかけたいなら、源義経のことなんて触れないのがベストです。なぜなら源義経生存説が否定されたら、そのまま『東日流外三郡誌』も偽書だと確定してしまうからです。

ではなぜ「源義経はモンゴルに渡った」という奇妙な記述があるのか。

それは、「源義経がモンゴルに渡った」という伝承……その「本物の資料」が和田家に残されており(事実、十三湊の車力村とか小泊という周辺の地域には、義経が来たという伝説が残っている)和田氏はその資料をもとに『東日流外三郡誌』を書いたから……というのが、もっとも筋の通った解釈に思えるのは、筆者だけでしょうか?

『東日流外三郡誌』が本物の証拠③リアリティ

3つ目の理由は証拠としては弱いかもしれませんが、『東日流外三郡誌』はただの創作にしては異常にリアリティがあります。このあたりは『竹内文書』とは雲泥の差です。

たとえば十三湊が1341年に大津波によって壊滅したというシーンは、次のように書かれています。

大地震起り、地下より大水わき上り、田畑の各処、邸内はもとより、家の床下よりも噴き上りぬ。また、墓地よりも湧き上れるに、白骨一面にいでなむ処あり。道行く人々、田畑に労せる人々、ただ、監然とて、地に座すのみなり。地揺れおさまりて暫し、崩れし家をかたづくるの間、海鳴り聞ゑむや、数丈の大津波、一挙に十三湊より逆流なして見ゆ。一刻の大惨事と相成れり。安東船、諸国の通商船数百綾、木の葉の如く、怒に砕け、十三族の倉邸人家、ことごとく大津波に崩れ、福島城の牧に遊ぶる駒も、裏ふる怒嵩に、千数百頭浪死す。各邑々の死者十万人、引く潮に流れ行く崩家材流木、海にいでては、渡島(北海道)にぞ陸続きたる如く見ゆ。ながらの地獄絵図なり。かしこに遣る人の骸に、鴇ぞ堅々として群り、肉をついばむさまぞ、天なる怒りか、地なる盆怒か、水なるの報復か、ただ、神仏を念ずる身なり。

和田喜八郎『東日流外三郡誌』第四巻より

すさまじい迫力です。とくに海に流れた材木や家材が連なって北海道につながるように見えたというくだりは、その目で見てきたようなリアリティがあります。

また安東水軍は海に逃れていて一瞬は助かったものの、港を失って離散し自然解体してしまったと書いてあるのですが、津波の恐ろしさを描きたいのなら普通は津波ですべて沈没したと書くでしょう。わざわざ細かいプロセスを踏んで描写しているあたりは、「事実を書いたから」と思いたくなってしまいます。

もちろん、リアリティがあるから本物と一概には言えませんが、もし『東日流外三郡誌』がすべて和田喜八郎の創作なら、彼には優れた小説家の素質があったといえるでしょう。

筆者としても、邪馬台国の王ナガスネヒコが東北に逃れてアラハバキ族を結成し、大和朝廷と戦ったというくだりは、あまりにもできすぎているためフィクションだと思っています。

しかし、上記の偽書作りのセオリーから外れた工程や、「ニホン」と「ヒノモト」の歴史を踏まえると、あながちすべて創作とは言いがたいと思います。

実際、江戸時代の旅行家である菅江真澄は東北を訪ねて、「十三漆や亀ヶ岡のあたりには昔、古代王国があった」という伝説があることをはっきりと書き残しており、土偶も見つけています。

東日本には正史から失われた伝説や歴史があり、和田家の祖先はそういった東北の知られざる伝説を収集していたのではないでしょうか。ただ和田喜八郎が、あえて自分でその資料を1本の『東日流外三郡誌』という面白い古史古伝に編さんしてしまったため、その資料の価値は失われてしまった……と、筆者は考えています。

このような偽書とするには不自然である情報が、古田武彦氏のような本物の研究者をかえって信じさせてしまった理由なのかもしれません。

最後に余談ですが、前回紹介した『竹内文書』にも、東北の知られざる伝説が記されています。『竹内文書』では伝説のムー大陸の子孫が日本にやってきて、東北に超古代文明を築いたと書いてあり、『東日流外三郡誌』以上に信じがたいのですが……

実は『竹内文書』でムー大陸が沈んで、彼らの生き残りが東北に漂着したのが5000年前、『東日流外三郡誌』でツボケ族が東北に漂着したのは5000年前と、両者の記述は微妙にリンクしています。

やはりどちらにも真実の内容が含まれており、ツボケ族こそがムー大陸の生き残り……と考えたら、とてもロマンがありますよね?

東北に謎の巨石古代文明があったことは、以前の記事で紹介した通りです。皆さんも東北のロマンに思いをはせてみてはいかがでしょうか。