始皇帝の時代から少し遡った紀元前496年頃、春秋時代に入っていた中国では力を持ったいくつかの国が覇権を唱えていた時代がありました。
そんな中に起こった呉と越の戦いにおいて、越の范蠡(はんれい)という人物が使った戦法が非常に不気味なものでした。
武王から始まった周の時代は長く続きましたが、次第に諸侯が力を付けてきたことによって、後に秦国が統一をする中国の複合国家が形成されていきます。
この過程で「呉越同舟(ごえつどうしゅう)」の語源にもなった、呉と越の争いにおいて謀に長けていたのが范蠡(はんれい)という軍略家だったのです。
今回はこの范蠡(はんれい)という人物が考案した、死刑囚を囮にした奇策について紹介します。
死刑囚を囮にして呉を迎撃した不気味な奇策とは?
当時、呉の国と越の国は隣接していたことから、常にお互いを牽制し合う犬猿の仲でした。
元々は越が呉に侵攻を繰り返しており、呉は当時の大国であった楚の国とも争っていましたが、こういった対立の隙間にも呉に対して攻撃を仕掛けていたのが越という国でした。
最初は呉の国も大国であった楚に手一杯でしたが、越の王であった允常(いんじょう)が逝去し、その子である勾踐(こうせん)が即位した王位の交代をキッカケに呉は越に対して初めての挙兵を行いました。
この時、范蠡(はんれい)が取った迎撃手段が「死刑囚を囮にする」という方法だったのですが、この奇策が非常に不気味な印象を呉に与えたのでした。
范蠡は自国の越にいた死刑囚に対して以下のような提案を行います。
「呉を迎え撃つにあたって進んで”自害”するものは、残された遺族や家族の生活を保証する」
このように”自らの死と引き換えに死刑囚達の家族の面倒を見る条件”を出したのです。
当時の時代背景を考えれば、死刑囚となった罪人に助かる道はありませんでした。
しかも、残された家族は生きていく術を持つことも難しかった上に、そもそも呉の国の侵攻によって国が滅んでしまえば、生きる道すら絶たれてしまう訳です。
こういった背景も手伝って、多くの死刑囚が范蠡(はんれい)の提案に志願して、自ら自害をするという選択を選ぶことになります。
戦場で自害する不気味な兵士達
こうして選ばれた自害する死刑囚達は、呉の侵攻に対して兵士として準備をすることになりました。
呉と対峙した越の軍の前線に配置された死刑囚の軍団が行なった行動が、呉に対して非常に恐怖を与えることになりました。
歩兵として組まれた死刑囚は3つの軍団に分けられ、対峙した呉軍と越軍の間に出て行きます。
最初に出ていった死刑囚のみで固められた歩兵隊が、両軍の間まで差し掛かると次々と自分自身で自分の首を切り落とすという奇行に走ったのです。
残った死刑囚歩兵軍団も先に出た歩兵よりも少し先に進んだ場所まで行くと、次々と自害を繰り返しました。
この光景を見せられた呉軍はその不可思議な光景と謎の行動に恐怖と戸惑いを覚えていきます。
3つに分けられた「自害をする歩兵軍団」が4回目に差し掛かると、呉軍はこれに気を取られてしまいます。
しかし、4回目に歩み出た歩兵は実は死刑囚の歩兵団ではなく、越の正規軍だったのです。
4回目の歩兵の進軍も自害をすると思っていた呉は虚を突かれた形になり、歩みを止めない歩兵に戸惑ってしまったのです。
この戸惑いと動揺を見逃さなかった越の軍は一気に呉軍に突撃し、一気に呉軍に大打撃を与えることに成功したのです。
通常の戦いであれば、「兵士をいかに減らさないか」ということを求められていた時代に、その逆をおこなったのが范蠡(はんれい)という軍略家だったのです。
越の知恵者としてその後も重宝された范蠡(はんれい)
この戦によって越での功績を認められた范蠡は、この戦が終わった後も越の国では重宝され、軍事面において多大な信頼を得ることに成功しました。
また、一説によれば范蠡は呉越の戦いが終わった後には商人としても成功したと言われています。
それにしても、命を懸けた戦場において自害をしていく敵兵士を見た呉軍はおぞましい程の不気味さを覚えたのではないでしょうか?
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