恐らく義務教育の中で集中的に学んだ人物での1人であろうと思われる聖徳太子ですが、近年では新たな発見があり過去に学んだ聖徳太子とは違いがあるそうです。
また中には存在しなかったという声も上がっています。
しかし架空の人物であるのに歴史的な偉人しか採用されない紙幣のデザインに採用されたのはおかしいです。
ビッグネームでありながらまだまだ謎の多い聖徳太子。
本記事では何者だったのか・なぜデザインに適用されたかなどを紹介します。
聖徳太子
まず聖徳太子という名前は後世へ広めるために付けられた名前で、実際は厩戸皇子(うまやどのおうじ・みこ)という名前が正式名称となります。
574年2月7日に生まれ、簡単にまとめると飛鳥時代に政治面で活躍をした偉人ですね。
橘豊日皇子と穴穂部間人皇女の間に生まれ異母の兄弟婚であったとされています。
「冠位十二階」「憲法十七条」「遣唐使派遣」など実に多くの功績を残しており、憲法十七条に至っては今なお通用する考え方でありますので当時では考えられないほどの秀才であったことがわかります。
また聖徳太子の伝説の中でも「10人の話を同時に聞いた」という逸話は老若男女問わず未だに語り継がれる伝説であり、人間離れした超人的な人物であったことがうかがえます。
しかし実際は10人の話を1人ずつ聞いて、的確なアドバイスを出し続けたという説がありますので噂におひれがついてしまったのかなと思います。
旧一万円札
現在の一万円札のモデルは学問のすゝめで有名な「福澤諭吉」であり、2024年からは日本を代表する実業家であった「渋沢栄一」がモデルになるなど日本において多大なる貢献をしてきた偉人達が紙幣に適用されています。
そして私たちが使用している福沢諭吉の前のモデルが聖徳太子であり、1958年12月1日に発行が開始され1986年1月4日に停止をされました。
モデルとなった理由は既にお気づきかもしれませんが、冠位十二階や憲法十七条などの偉業を成し遂げたからであり日本の政治に多大なる貢献をしたからと言われています。
しかし現在では歴史が変更されていますので、多くが解明された今紙幣を聖徳太子にするとなると熱い議論が交わされてしまうかもしれませんね。
何故存在しない?
では本題のなぜ存在しないのか?ということですが、簡単に説明しますと厩戸皇子と聖徳太子では似ても似つかない部分があるからです。
聖徳太子と廄戸皇子が同一人物であるのならば文献にも同様の扱いがされていなければいけませんが、実際はそう書かれておらず廄戸皇子1人が冠位十二階などを定めたわけではないとされています。
ここが一番の相違点であり、同一人物ではあるが誇張されて書かれていたという真実にたどり着く場所。
また冠位十二階は当時既に中国で発明されており、遣唐使の派遣は聖徳太子が初めではないこともわかっています。
ではなぜ聖徳太子が生まれたかというと、厩戸皇子没後は激しい皇位継承憲法争いが起こり天武天皇が自らの優秀さを裏付けるために血筋である厩戸皇子を聖徳太子として公言したためと推測されました。
上記が正しければ天武天皇が幅を利かせるために作り上げた人物でまかり通りますので、的を得ているかなと思います。
消えゆく聖徳太子
教科書ではすでに厩戸皇子という名前が使用されるようになっており、後々脚注では紹介されても大々的に聖徳太子と呼ばれることは少なくなると思われます。
教科書は嘘を書いてはいけませんので当然の措置かと思いますが、残念に感じてしまう気持ちとあります。
しかし聖徳太子ほどではなくとも厩戸皇子も非常に優秀な偉人であることがわかっていますので、後世には事実のねじ曲げがなくストレートに伝わっていくでしょう。
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