オカルト好きな人であれば意外と映画が好きだったりして…。
皆さんは映画を見たことがあるでしょうか?…っというのはほぼ愚問かも知れません。
今やスマホからでも映画を見ることは出来ますし、映画館はもちろん、地上波やたくさんの場所で楽しむことが出来る、娯楽の代表の1つと言っても良いでしょう。
「映画」というエンターテイメントの始まりは、かのエジソンが作った世界初の映画館と呼ばれる「キネト・スコープパーラー」だとする説が多いですが、実は同年代のフランス人であったルイ・ル・プランスという人物によって、”動く写真”の撮影機は完成されており、エジソンが1人で作ったものではないことも、後に権利を主張し合った裁判などで判決が出ています。
近年では、この「ルイ・ル・プランスこそが映画の父である」という説があるのですが、今回は彼にまつわる不思議なお話を紹介します。
画像引用元:ルイ・ル・プランス
1841年にフランスに生まれたル・プランスは、主にイギリスとアメリカで活動した人物でした。
発明家はもちろんですが、科学者や技術者としても活動していたと言われており、1866年にイギリスのリーズで職を得て結婚。
その後はニューヨークへ移ると、動く写真の撮影方法模索に没頭していたそうです。
すでにカメラの技術は確立されていたものの、「動画」という概念がなかった時代ですから、カメラを使って”動く写真を撮る”という研究をしていた訳ですね。
同じく映画の父として名高いフランスのリュミエール兄弟や、偉大な発明家であるトーマス・エジソンも、この時期に動画撮影方法についての発明をしていたと言われています。
しかし、そんな有名な人々の中において、ル・プランスは1888年にいち早く単レンズ型カメラを完成させることに成功。
この1888年に完成された技術と機械を使ってル・プランスはイギリスのリーズで動画を撮影しました。この動画こそが世界初の映画だと言われています。
この動画が撮影された、1888年には、リュミエール兄弟やエジソンも動画撮影には成功しておらず、ル・プランスの名声はほぼ確実なものとなる予定だったのです。
しかし、当時、彼の功績は世に出ることはありませんでした。
1890年の9月、フランスのディジョンという場所から、ル・プランスはパリ行きの列車に乗ります。
映画という新しい技術と、これを世界的に発表するために母国フランスはもちろん、最終的にはアメリカでの特許取得や試写発表会まで計画していたそうです。
しかしル・プランスの乗った列車がパリに着いたとき、ル・プランス本人はおろか、荷物なども全て消え去っていたのです。
ディジョンで列車に乗る所までは、ル・プランスの兄弟が見届けていたことから、彼はディジョン駅からパリの駅までの間に忽然と姿を消してしまったということになります。
世界初の映画撮影技術を発明した彼が、どうして行方不明になったのか?
通常の考えでは、彼が消える理由はないですし、むしろこれからが彼の苦労が報われる筈だったからです。
この謎多きル・プランス失踪の原因については複数の説が唱えられています。
当時、最初に取り上げられた原因は「破産寸前」と言われていたル・プランスの金銭事情でした。
詳細な理由までは不明ですが、一部の説ではル・プランスは金銭的に非常に追い込まれていたと言われています。
しかし、これはアメリカでの特許取得まで計画していた背景を考えると妥当ではないでしょう。
上記の金銭的なトラブルに加えて、彼が同性愛者だったことが家族に発覚したという説も唱えられています。
当時の同性愛者がどれほどのマイノリティーであったかは不明ですが、それを加味しても世紀の発明を考えると、腑に落ちない点の方が勝るでしょう。
そもそも、ル・プランスが同性愛者だったという証拠も一切ありません。
また、自殺という説もありますが、状況から考えるとディジョン駅からパリまでの間に全ての荷物を持って列車から飛び降りる以外に方法はありません。
当時の列車は現在よりもセキュリティは甘かったと思いますが、流石にこれが真実であれば後に家族などが捜索願いを出して遺体などが発見される確率の方が高いのではないでしょうか?
実際に姿を見せなかったル・プランスを案じて家族やフランス警察、スコットランドヤードが徹底的な捜索をおこなったものの、ル・プランスは線路周辺では発見されなかったそうです。
陰謀説にはいくつかありますが、全ての目的はル・プランスに映画撮影技術の特許取得をさせないために、何者かによって拉致された、もしくは殺害されたという説です。
この陰謀説の中にはエジソンの名前を挙げる論者もいますが、この情報発信元はなんとル・プランスの妻でした。
他にも後年の映画史研究家の説によれば、ル・プランス金銭問題で兄弟によって殺害されており、そもそもディジョン駅からパリに向かっていないというものもあります。
つまり、ディジョンへ着いた後に死亡し、遺体は隠されたという説です。個人的には、この説は比較的信ぴょう性も感じます。
失踪直前のル・プランスの足取りに関してはある程度の記録が残っています。
ル・プランスは失踪の前にアメリカで自分の発明したカメラを宣伝する旅行をしており、その評判は上々、発明家としても名前が知れていました。
さらにイギリスでも同カメラの特許申請を予定しており、イギリスに戻る前に、兄弟と友人達に会うためにフランスに立ち寄ったそうです。
フランスでは9月13日までブールジュに滞在、そこからディジョンに向かっています。
そして9月16日にディジョンからパリに発ったと言われていますが、この情報を裏付けるものはル・プランスの兄弟の目撃証言のみでした。
兄弟はディジョンに住んでおり、パリには友人に会いに行った。というのがル・プランス失踪前に一連の行動だとされています。
ル・プランスが失踪した後、前述の通りル・プランスの家族エジソンと特許に関する法廷での争いを始めます。
ル・プランスには妻と息子がいたため、1898年にエジソンとの訴訟において息子のアドルフが証人として法廷に呼ばれています。
このとき、最初に裁判を有利に進めたのはエジソンであり、1901年には一度エジソンが勝訴しました。
息子のアドルフは父、ル・プランスの実験に何度も協力していたため「エジソンよりも早く映画撮影技術を完成させた」と繰り返し主張していたそうです。
そして、1902年、息子のアドルフも鴨撃ちに出掛けた際に銃殺遺体で発見される事態になりました。
同年、裁判所は当初の判決を覆し、エジソン単独で映画を完成させたという判決から、撮影技術がエジソン単独の発明ではないことを認める判決を出したとのこと。
しかし、この判決が出る前に息子のアドルフは亡くなってしまっていたため、親子続いて行方不明、怪死するという不幸な結末を迎えることになります。
2003年になって、1890年当時のパリ警察の記録からル・プランスに似た溺死体の写真が発見されたとのことですが、本人かどうかは断定されていないそうです。
映画という娯楽発明の裏で、消息不明になったル・プランス、そして裁判中に怪死した息子のアドルフ。
世紀の発明には、様々な裏側があるのだと感じられる出来事ではないでしょうか?
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