イタリア・ルネサンス期に活躍した天才「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の作品を通し、彼の素顔に迫っていく連載は、今回で7回目を迎えます。
第5回までは、彼の少年時代~20代の頃のフィレンツェ時代を紹介してきましたが、第6回からは、彼の全盛期とも言われる「ミラノ時代」を中心に解説しています。
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前回は、レオナルドがミラノ時代に発揮した多才ぶりをまとめましたが、今回は、彼が頭を悩ませた問題作『岩窟の聖母』の紹介です。
彼が生涯に制作した絵画でも屈指の絵画技法が用いられていながら、最も挑戦的であり、問題や謎の多い作品でもありました。
この絵画の革新性と問題点について、詳しく見ていきましょう!
フィレンツェからミラノに移り住んだ、レオナルド・ダ・ヴィンチ
レオナルド・ダ・ヴィンチは、1480年前半、それまで活動していたイタリアの都市・フィレンツェを離れ、ミラノに移り住みました。
ミラノで工房を開いたレオナルドが最初に制作した絵画が、今回紹介する『岩窟の聖母』とされています。
絵画には、
- 聖母マリア(真ん中)
- 大天使ウリエル(右)
- イエス・キリスト(右の子)
- 洗礼者ヨハネ(左の子)
この4名が、三角形の配置で描かれています。
『岩窟の聖母』のシーンと、絵画技法「スフマート」
このシーンは、実体のない神(キリスト)が、イエスという人間として地上に生まれた(=受肉した)ことを讃えています。
『岩窟の聖母』は、レオナルドが創始者とされる「スフマート」という技法がふんだんに使われており、その中でも特に完成度が高く洗練された作品です。
スフマートとは、「自然界に輪郭などない」と考えたレオナルドが創り出した、色彩の変化が認識できないほどに色を塗り重ね、輪郭を描くことなく物質を浮き立たせる描き方のこと。
『岩窟の聖母』の問題点とは?
『岩窟の聖母』は、ほとんど同じ構図・構成の作品がもう1点存在し、ロンドンのナショナル・ギャラリーに所蔵されています。
なぜ、同じ構図・構成の絵画が、この世に複数存在するのか?
これは単なる模写ではなく、『岩窟の聖母』を描くよう依頼した人物とのトラブルが原因だったのです。
依頼主のあらゆる意向に背いた、レオナルド・ダ・ヴィンチ
実は、依頼主が当初注文していた『岩窟の聖母』と、最終的にレオナルドが描き上げた『岩窟の聖母』は、まったく別物と言っていいほどの仕上がりだったのです。
- 人物の背後に金を用いるよう指定されていたが、まったく注文されていない岩窟を描いた
- 当時は横一列に配置することが主流だった登場人物たちを、斬新すぎる三角形に配置した
- 自然を重視するレオナルドは、聖母マリアやイエスの頭上に光輪(ニンブス)さえ描かなかった
依頼主は構図や配色・技法に至るまで細かく注文を付けていたそうですが、レオナルドはそのほとんどを無視したのです。
レオナルドはこれまでも、依頼主の指示に従わず自分が描きたいように絵画を制作したこともありますが、そのほとんどは、依頼主や鑑賞者に歓迎され、称賛を得てきました。
しかし今回ばかりは、彼の創意工夫が裏目に出て、この後約20年にもわたる裁判にまで発展してしまっています。
最初に描いた『岩窟の聖母』が受け入れられなかったことから、その妥協案として、ナショナル・ギャラリー版の『岩窟の聖母』が描かれたとされています。
2つとも構図は同じながら、色彩が鮮やかになっていたり、コントラストがはっきりしていたり、光輪が描かれたりと様々な修正が加わっていることが分かります。
次回『白貂を抱く貴婦人』『ラ・ベル・フェロニエール』に続く。
依頼主の意向にまったく沿わない作品を描いたという意味では、ルーブル版『岩窟の聖母』は、プロの画家としては良くない行為のはず…。
それでもなお、レオナルドは、自身の知的好奇心の赴くままに絵を描き続けます。
別の角度から考えれば、最初の『岩窟の聖母』によってスフマート技法が完成の域に達したことで、世界一有名な絵画『モナ・リザ』が生み出されたとも言えます。
次回は、その『モナ・リザ』と並ぶ、肖像画の傑作『白貂を抱く貴婦人』『ラ・ベル・フェロニエール』の2作品の、思わず吸い込まれそうになる魅力をご紹介します!