さて、ここまではファティマの予言を授けられた子どものうち、唯一長命であったルシアに関する都市伝説などを紹介してきたが、本記事ではファティマ第三の予言そのものに関する陰謀について触れていきたいと思う。
少なくともルシアは予言を授けられた幼少期から1957年にかけて、聖母マリアから受けた第三の予言は1960年に公開するように厳命されていたという。
ルシアは授かった予言に関してはシスターになる際に、教会へ「預けた」のは事実であるとされているが、1960年になってもファティマ第三の予言は公開されることがなかった。
60年代の教皇であったヨハネ23世は一度この予言について中身を確認したとされているが、あまりの内容に再度封印することになった。
これらの行為によってファティマ第三の予言を取り巻く都市伝説や、噂は大きな広がりを見せることになる。
1981年アイルランド航空便がハイジャックされる
聖母が指定したとされている第三の予言公開の年になるはずだった1960年にはヨハネ23世によって「公開すべきではない」との判断がくだされた結果、次の教皇となったパウロ6世が予言を引き継ぐことになった。しかし、パウロ6世も予言の中身を見た結果、一週間ほど昏睡したという逸話が残されている。
合わせて考えたいのは、以前の記事で紹介したルシアそのものが入れ替わっている可能性である。
ルシアが聖母マリアから予言の公開を指示されていたという1960年は、近年の研究者の間でルシア自身が暗殺され、別人をルシアとしているという説がある。
そもそも、第一の予言はともかく、ファティマ第二の予言とされている内容は、「第二次世界大戦の勃発」であったと言われている。
ロシアが関係していたという説は予言を受けた時期から考えても第二の予言の内容に忠実になっている。実際にロシアが受けたと言われている受難は、ロシア革命からソビエト崩壊までの無宗教時代であったとされており、実際に第二次世界大戦ではスターリンによる独裁政治によって多くの人間が犠牲になっている。
戦後、これらの問題がファティマ第二の予言の内容であったと考えた人々は冷戦下において次の戦争や核の問題など、第二次世界大戦を上回るような内容が第三の予言には隠れていると考えていた。
そんな中、1981年5月にアイルランド航空便がハイジャックされる事件が発生し、要求として「ファティマ第三の予言の開示」を求めている。この事件の犯人はカトリック信者であった。
そして、いよいよ2000年になり、40年間の封印を解いて正式に予言を公表するという流れになった。
教皇庁が公開したファティマ第三の予言の疑問点
すでに述べたあの二つの啓示のあと、わたしたちは、マリアの左側の少し高い所に、火の剣を左手に持った一人の天使を見ました。しかしその炎は、マリアが天使に向かって差し伸べておられた右手から発する輝かしい光に触れると消えるのでした。天使は、右手で地を指しながら大声で叫びました。「悔い改め、悔い改め、悔い改め」。それからわたしたちには、計り知れない光―それは神です―の中に、「何か鏡の前を人が通り過ぎるときにその鏡に映って見えるような感じで」白い衣をまとった一人の司教が見えました。「それは教皇だという感じでした」。そのほかに幾人もの司教と司祭、修道士と修道女が、険しい山を登っていました。その頂上には、樹皮のついたコルクの木のような粗末な丸太の大十字架が立っていました。教皇は、そこに到着なさる前に、半ば廃墟と化した大きな町を、苦痛と悲しみにあえぎながら震える足取りでお通りになり、通りすがりに出会う死者の魂の為に祈っておられました。それから教皇は山の頂上に到着し、大十字架のもとにひざまづいてひれ伏されたとき、一団の兵士達によって殺されました。彼らは教皇に向かって何発もの銃弾を発射し、矢を放ちました。同様に、他の司教、司祭、修道士、修道女、そして様々な階級と職種の平信徒の人々も次々にそこで死んでいきました。十字架の二つの腕の下にいた二位の天使は、おのおの手にした水晶の水入れに殉教者たちの血を集め、神に向かって歩んでくる霊魂にそれを注ぐのでした。 トゥイにて 一九四四年一月三日— 教皇庁教理省『ファティマ 第三の秘密』カトリック中央協議会、2001年
引用元:ファティマの聖母
教皇庁は上記内容が2000年に正式に開示された「ファティマ第三の予言」の内容である。
この解釈については、1981年に起こった教皇暗殺未遂を示したものであるという解釈をヨハネ・パウロ2世は著作において示しているが、実際には多くの食い違いが生じていることを指摘されている。
まず、大十字架のもとにひざまずいたとされる教皇は一団の兵士達によって”殺された”と示されているが、実際には暗殺未遂事件に終わっていること、そして他の司教や司祭なども次々と死んでいったとされているが、この部分については一切事件性がないことなどである。
また1960年以降のルシアが本物かどうかは別として、発表された予言の内容は一部であるとし、教皇庁を提訴する事態に発展している。
これに関して多くの人は2代にも渡って教皇が伏せなければならなかった内容ではないと指摘しており、さらにルシア自身は「ヨハネの黙示録」に関わる内容であったとも指摘している。
第三の予言がローマに渡った経緯
実は、ファティマ第三の予言は1940年代にルシアが書面にしたものをダ・カルヴァ司教という人物に直接手渡されたとされている。
また、1946年にはこのダ・カルヴァ司教がいる場所において、1960年を待つ理由を聞かれたルシアは「聖母が望んでおられる」と明確に答えていたという。
正確には、ルシアの死、もしくは1960年に公開されるべきものであるというのが、ファティマ第三の予言における厳命であったのである。
しかし、1957年、ダ・カルヴァ司教は副司教ヴェナンシオにこの貴重な手記をローマへと移送するように委任したという。
その時の教皇はピオ12世であったが、内容については1960年まで確認しない方針をとったとされている。
そして、話は戻り1960年の再封印になるのだが、教皇の交代、そしてルシアの不審な点などを考えるに、第三の予言は改ざんされている可能性が非常に高いという研究者もいるのである。
また、一部の証言では第三の予言は公表されたような長いものでは無かったという説もある。
一体何が正しいのか?
ファティマ第三の予言は何を意味していたのであろうか。
第三の予言の真相が明かされない理由とは?
では、仮に改ざん、あるいは一部を隠蔽されているとすれば、何故ファティマ第三の予言がそのような扱いを受ける必要があったのだろうか?
1つ考えられるのは、ローマ教皇庁やカトリック教会にとっての「不都合な真実」が記されていたのかもしれないという予測である。
また、後年のルシアは1960年代以降明らかに言動も変えており、ローマ教皇を肯定するようなパフォーマンスを見せていた。
特に、教皇と対面したルシアが教皇の差し出した手に口づけをしたというエピソードは、キリスト教という宗教上の概念としても非常におかしい行動であったと言われている。
後年(正確には予言を開示するべきだと言われていた1960年以後のルシア)が偽物であったとすれば、真実を闇の中にしまう必要があったのは、ローマ教皇庁やカトリック教会であったのかもしれない。
このルシアも2005年には亡くなっており、もはや真相を究明することは不可能に近いと言われている。
しかし、このファティマ第三の予言には明らかに不可思議な点が多いことも事実としてあるのだ。
参考
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