インドシナ難民の発生と背景 日本は難民を受け入れた

難民の問題について、オカルトオンラインでシリーズでご紹介していますが、今回スポットを当てるのは「インドシナ難民」です。

インドシナ難民と言われて「あぁ、あのことね」と思える方はおそらくほとんどいらっしゃらないかと思います。今回は、インドシナ難民について見ていきましょう。

インドシナ三国ってどこ?

画像:PixaBay

インドシナ三国とは、ベトナム・ラオス・カンボジアのことです。

この三つの国が社会主義体制に移行したことで、この体制に馴染めない人や迫害の恐れがある人が難民となったのです。それがインドシナ難民です。

総数144万人を超えたインドシナ難民

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ベトナム・ラオス・カンボジアのインドシナ三国は、1975年から次々と社会主義体制に移行しました。

この社会体制の変化で体制になじめない人や、新しい体制のもとでは迫害を受ける危険がある人が陸路と海路の両方で近隣の国に逃れました。このような人々の総称がインドシナ難民です。

インドシナ難民の総数は144万人を超えました。陸路で近隣諸国に逃げた人々もいたのですが、ボートを使って逃げた人々もて、ボートを使って海路で難民となった人々のことをボート・ピープルと呼びました。ボートを使って逃げるボート・ピープルは1979から1982年にかけてピークを迎えます。

そして、144万人もの難民のうち、130万人はアメリカや日本、オーストラリアやカナダなどに定住することになります。

 

インドシナ難民の受け入れ数

アメリカ – 823,000人
オーストラリア と カナダ – 各137,000人
フランス – 96,000人
ドイツ と イギリス – 各19,000人
日本 – 11,319人
イスラエル 400人

引用:Wikipedia

日本は、難民の受け入れ数が極端に少ない国ですが、インドシナ難民に関しては1万人以上受けています。

難民はどんな人達だったのか

144万人といえば、大体、沖縄県の人口と同じくらいになります。膨大な数の難民が発生したのですが、その多くは中国系の人々でした。

社会主義体制になると、資産の制限や国有化が進みます。そして、民族的な緊張も相まって大量の華僑が逃げ出したのです。

再教育キャンプなどの存在

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自分が住んでいる国を捨てて外国に逃れる決意をするということは、並大抵のことではありません。

「いっそ逃げてしまおう」と思う位の事が、自分の国で起ったということです。ちょっとこのとき、カンボジアでは文化人を虐殺して統制を図ろうとしたポル・ポト政権が誕生しています。

ポル・ポトは自国民を虐殺して農業をすることを強要する政策を取り、旧体制の関係者や役人、医師や弁護士、教師、外国語を話せる人を殺していきます。実際に、キリングフィールドやS21ではたくさんの人が殺害されました。

そして、ベトナム政府は10万人もの南ベトナム人を再教育キャンプに送り、ラオスはベトナム情勢に影響を受けてラオス愛国戦線が全土を掌握し社会主義体制へと移行していきました。首都では2万人規模のデモが起こりますが、結局社会主義体制が取られることになりました。これによって、旧体制の関係者や新しい体制を受け入れられない人が難民となったのです。

このような様々なな事情があって、祖国を捨てたわけですが、難民は例え外国に逃れても「すぐにほっとできる」というわけではありません。徒歩かボートで外国に向かう訳ですから、途中で力尽きてしまった人もいることでしょう。ボートの場合は転覆や漂流の危険もあります。そして、なんとかたどり着いても、不法入国者として扱われることも珍しくありません。当然、難民キャンプも決して恵まれた環境ではないわけです。

 

 

国連の活動は?

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インドシナ難民が発生した背景にあったのは、不安定な政治情勢と虐殺や再教育キャンプなどの迫害の危険です。そうして発生した難民に対して、国連難民高等弁務官事務所は1979年に人道目的に限って、ベトナムからの合法的な出国を認める合意を取り付けました。合法出国計画(ODP:Orderly Departure Program)というのですが、この計画で60万人のベトナム人が合法的に出国したのです。

国連や近隣諸国が何もしなかつたというわけではありません。ですが、再教育キャンプや自国民の虐殺を止めることはできませんでした。

日本の難民条約加入のタイミング

 

インドシナ難民の問題には、ひとつ気になることがあります。

社会主義体制への移行が難民発生の原因なのですが、インドシナ難民がピークを迎えた1979年には、日本は難民条約に入っていませんでした。つまり、この時点では難民を受け入れる義務はなかったのです。

日本が難民条約に加入したのは、1981年6月・・・。そして、日本はインドシナ難民を受け入れてします。なぜこのタイミングで難民条約に加入したのでしょうか。そして、ベトナムが社会主義体制に移行したのはアメリカが介入に失敗したこともひとつの大きな要因でした。

アメリカが生み出したともいえる、144万人もの難民を問題を解決するために、加入せざるを得なかった…のではないかと疑ってしまいます。

 

まとめ

インドシナ難民は、1975年からインドシナ三国が社会主義体制に移行したことで発生した難民です。日本は1万人のインドシナ難民を受け入れました。

再教育キャンプやポル・ポト政権のジェノサイドから逃れた人々の数は144万人にのぼり、日本も1万人のインドシナ難民を受け入れています。難民の発生後のタイミングで難民条約に加入した日本…。このタイミングには何か理由があるのでしょうか…。

 

 

 

参考資料:難民事業本部

 

Miiko

ライター歴約10年 法学系院卒 得意記事は、歴史・スピリチュアル・法律等々 福岡の隅っこでコーヒー片手に執筆中