前編ではイスラエル王国の建国までの流れを大まかに解説してきたが、この古代イスラエル民族の歴史は日ユ同祖論を考察する上で必須の情報であるため、繰り返しにはなるが今しばしお付き合い願いたい。
さて、モーセからヨシュアに時代が移り変わり、イスラエルの12支族はパレスチナを拠点としたイスラエル王国を建国した後、12支族は紀元前1000年頃に全イスラエル民族の統一を図ろうとする。
しかし、最初に選ばれたサウルという戦争の英雄は傲慢さから失脚し、次に選ばれたのが有名なダビデであった。ダビデは羊飼いの青年であったが、全てのイスラエル民族を統一し、イスラエル統一王国が建国されることになった。
そしてこの王国はダビデ王の息子ソロモンの時代に最大の繁栄を迎える。移動式であった神殿を固定した巨大なソロモン第一神殿の建設などによって文化の進歩や国の繁栄があった一方で、いわゆる庶民階級には税と労働による不満が溜まっていた。
これらがキッカケになり12支族の1つエラフイム族のヤラベアムがソロモン王の息子の代に反乱を始めてしまう。この内乱によってイスラエル統一王国はたった80年ほどで南北に分かれてしまう。
北イスラエル王国は反乱を起こしたヤラべアムを支持した10支族でまとまり、南ユダ王国はソロモン王の息子を支持した、後にユダヤ人と呼ばれるユダ族とベニヤミン族、そしてレビ族の一部がそれぞれ建国を宣言した。
ちなみに、北イスラエル王国の首都はサマリアであり、南ユダ王国の首都はエルサレムであった。
さらに旧約聖書にも記されている内容を辿ると、当初原点の信仰は絶対神ヤハウェであったが、北イスラエル王国に分裂した10支族は黄金の仔牛像などによる偶像崇拝を行うようになってしまったとされている。
神の使いとして何人もの預言者が遣わされたが、北イスラエルの信仰は偶像崇拝だけに留まらず、異教の神などを信仰するようになり、もはや古代ヘブライ教の教義は失われてしまっていた。
南ユダ王国は絶対神ヤハウェを信仰していたが、分裂から200年ほど経過した紀元前722年にメソポタミア地方で力を伸ばしていたアッシリア帝国によって北イスラエル王国は陥落する。この戦争で北イスラエルの10支族はアッシリア帝国へ約3万人近い貴族階級の人間が連れて行かれている(ニネベ捕囚)
さらにこの戦争を見た南ユダ王国も135年後、同様に過ちを犯し、バビロニア帝国によって滅ぼされ捕虜としてバビロニア帝国へと連行されることになる(バビロン捕囚)
紀元前538年には南ユダ王国を滅ぼしたメソポタミアのバビロニア帝国のその後である新バビロニア王国は時のペルシア王国によって滅亡することになる。ここでようやく南ユダ王国の2支族は故郷であるエルサレムへ帰ることを許された。
再びパレスチナへ戻った現在のユダヤ人と呼ばれる人々の祖先である2支族は、再びソロモン神殿を立てて厳しい戒律の元、新しいユダヤ教を成立させた。
この頃、同じく捕囚されていた北イスラエルの10支族を連れ去ったアッシリア帝国も滅亡していたが、聖地とされていたパレスチナ地方へは帰っておらず、アッシリア帝国の後にも存在しなくなっていたのである。
一説によると一部の人々は帰ってきたようではあるが、全12支族あったイスラエル民族の内、ほぼ10支族全ての行方が分からなくなっているのである。
これが失われた10支族の謎としての終わりであり、日ユ同祖論へ繋がる部分でもある。
そう。
この歴史から消えてしまった10支族の一部、または全てが日本へと辿り着いたというのが、日ユ同祖論の根拠として取り上げられる1つである。
もちろん、単純に歴史から消えたイスラエル民族が日本に来たかも知れないというものではなく、日本とユダヤ人(イスラエル民族)にある文化や風習を含めた共通点をもって論じられている。
聖書外典とされる「第二エズラ書」には、この消えた10支族は過ちを再び侵さないためにユーフラテス川の領域へ入っていたとされている。(現在のイラク、シリア、トルコを含む西アジア地帯)
また、日ユ同祖論と同じような説の1つに英ユ同祖論も存在しており、地中海方面へ向かった10支族の人々の一部はイギリス人の祖先となったという説もある。
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