私たちは普段、脳から指令を出すことによって手足を動かしています。
脳の指令は実のところ電気信号であり、いってしまえば単なる物質の動きに過ぎません。
しかし、われわれ人間は意識や感覚、いわゆるクオリアというものを持っています。
なぜ物質の動きによってクオリアが発生するのでしょうか?
今回は、そんな物理的現象である脳の動きとクオリアの関係について考えていきます。
随伴現象説とクオリア
私たち人間は、一人ひとりクオリア(意識、感覚質)を持っています。
しかし、そのクオリアは脳という物質的な器官に付随しているだけで、意思決定に何の影響も及ぼさない。
こういった考え方を「随伴現象説」といいます。
脳や体は、物質の動きによって純粋に動く機械であり、クオリアはその機械的運動によって生まれる副産物であるとされています。
クオリアは物理学では説明できない
なぜ脳細胞の物質的な動きによってクオリアが生まれるのでしょうか。
これに対する具体的で納得できる答えは、今のところありません。
しかし、行動と思考(クオリア)、どちらが先であろうとその2つが関係しているのは確かです。
「脳細胞がこんな状態になっているとき、こんなクオリアが発生している…」
といった現象日常的に、無限に起きているのです。
これは残念ながら、現代の物理学では取り扱えない領域にあるといいます。
物理主義の世界に生きる私たちにとって、クオリアは物理的に証明できないやっかいな存在なのです。
行動が先か、思考が先か
例えばスポーツをしてたくさん汗をかいた後、水があればすぐに水を手に取って飲むでしょう。
このとき、「水が飲みたい」と思って水を飲んだのでしょうか。
それとも、「水が飲みたい」と思う前に、体はすでに水を飲む状態にあったのでしょうか。
随伴現象説では、あくまでも物質として脳と体が水を欲したことへの結果として頭に浮かんだのが「水が飲みたい」という気持ち(クオリア)だ、というのです。
クオリアは何のために存在するのか
もし、クオリアが脳細胞に全く影響せず、私たちの物理的な意思決定の副産物であるとします。
すると、クオリアなんて別に要らないんじゃ…と、そういう結論になりますよね?
クオリアというのはただ発生しているだけ。いってみればオマケのような存在であるということになります。
随伴現象説が正しいなら、この世は終わり?
これに対してアメリカの哲学者ジェリー・フォーダーは「随伴現象説が正しいとすれば、この世は終わりだ」と述べました。
なぜなら、私たちは一人ひとり、自分が自分たる理由、アイデンティティーを持っています。
しかしそのアイデンティティーは全面的にクオリアに依存しており、意識こそが行動を決定しないといけないというのです。
随伴現象説を信じる人・信じない人の違いは?
もし、随伴現象説を全面的に信じている人がいたとします。
その人たちはあくまでも「体内の水分が減った」という物理的状況によって水を飲み、その副産物として「水が飲みたい」と感じます。
しかし、それは随伴現象説を信じない人と何が違うのでしょうか?
随伴現象説を信じる人たちも、発生する順番こそ違いますが行動とクオリアは伴っています。
随伴現象説を信じている人にとっては、その順番がどちらであろうと自分が人間であるという感覚は持っているのです。
クオリアは不要?
物理主義の立場からすると、クオリアとは何のためにあるのだろう?と考えても、何の意味もないのではないかというところに落ち着きます。
暴論のようにも思えますが、クオリアは人間が生きていく中で別に要らなかったということです。
(神がいるとすれば)神が気まぐれで人類にクオリアというオマケを付けたといった感じでしょうか。
と同時に、今のところはクオリアが証明できませんが、後にクオリアが物理的に証明できる可能性はないのでしょうか…
随伴現象説とは、物理学者がクオリアに対して白旗をあげた、そんなふうにも捉えることができますね。