三国志の本場中国でも一番の人気を誇るのが、劉備の義弟であり、忠義の人と呼ばれた関羽雲長(かんううんちょう)です。
長い髭に巨大な青龍偃月刀を振り回し、張飛と並んで1人で1万の兵士にも匹敵すると言われた武勇を持つ関羽は死後にも尊敬を集め続けて、現在の中国では神様の1人としても崇められています。
関羽は三国志の時代においても国を超えて尊敬を集め続けたと言われていた人物でしたが、何故これほどまでの人望を集めることになったのでしょうか?
今回は、あの曹操も自身の配下に欲しがった関羽の生涯とその最期についても紹介してきたいと思います。
画像引用元:関羽
三国志ではもっとも仁義に厚いイメージを持たれる関羽ですが、実は若い頃に故郷で殺人を犯したことをキッカケに、劉備や張飛と出会った涿州(たくしゅう)へ逃げてきたとも言われています。
この時代、特に劉備の陣営に初期から付き従っていた関羽・張飛などは侠客(きょうかく)と呼ばれる側面を持っていました。
関羽は当時、一説によると私塾を開いていたようですが、いわゆる「男」を売りにした1人でもあったのです。
弟分が張飛であり、先に付き合いがあったところに劉備という「頼れる兄貴分」が登場したわけですね。
もちろん、武術などの腕においては関羽や張飛の方が圧倒的に上であったのでしょうが、劉備の男気や人当たりが関羽や張飛も認めるものであったのでしょう。
また、関羽というと義に厚く礼儀正しい人物をイメージされる人も多いかもしれませんが、かなりの自信家であったことも語られています。
後年の活躍を考えると、その自信に見合った腕を持っていたことは確かですが、関羽が亡くなった原因になったのもまたこの自信から来る『おごり』であったとも言われているのです。
199年、劉備が曹操を裏切って独立すると、下邳の防衛を任されることになった関羽。
当然、曹操は自分を裏切った劉備を見逃すはずがなく、翌年の200年に劉備達は曹操の襲撃を受けます。
もちろん、当時の情勢で勝てるはずもなく、劉備は袁紹の元へ逃げ延びましたが、関羽は曹操軍に投降することになりました。
当時の状況を考えると、通常であればこのときに命を奪われていてもおかしくなかった訳ですが、曹操は関羽を厚遇して自分の配下にしようと多くの貢物などを送ったようです。
この辺りは三国志演義でも語られているエピソードですね。
呂布を倒した後に曹操が所有していた名馬赤兎馬を贈られたのも、この捕虜の時代であったと言われていますが、史実として赤兎馬が贈られたかどうかは不明です。
この後、袁紹軍と曹操軍は河北を争う一大決戦となった「官渡の戦い」になる訳ですが、袁紹軍には劉備が、曹操軍には関羽がいるという奇妙な状態で戦いが始まります。
官渡の戦いは圧倒的な勢力を誇る袁紹に対して、曹操軍は不利だと言われていました。
袁紹軍の猛将であった顔良は曹操軍を悩ませる武将の1人でした。そこで、客将となっていた関羽が曹操から命令され、顔良を討ち取ったのです。
三国志演義では、関羽の活躍から一気に曹操が攻勢に転じる様子が描かれますが、実際には曹操軍の作戦による勝利があったとのこと。
しかし、この戦いで劉備の居場所を知った関羽は、顔良を討ったことを理由に曹操の元を離れます。
これが有名な『関羽千里行』です。
多くの関所を突破する必要のある劉備の奥方を連れての脱出劇でしたが、曹操の配下がこれを追いかけようとしたものの、曹操は追撃を辞めさせたと言われています。
曹操の元を去った関羽は今までの贈り物など全てに封をして与えられていた屋敷に置いてきたそうです。
曹操は関羽の主君に対する義の精神やその腕にとことん惚れ込み、自分の配下にしたがったものの、劉備への忠義心を貫くことを許したということになります。
この後、長坂の戦いや赤壁の戦いを経て、劉備が蜀の地に入るとそれまでの功績を評価された関羽は荊州の軍を全て預かる立場になりました。
東は呉、北は魏の守りの要として、諸葛亮にも信頼された上で蜀から離れた前線を一身に引き受けます。
しかし、この采配後、劉備と関羽が直接顔を合わせることはありませんでした。
荊州を任された関羽は、この後、呉の呂蒙、そして陸遜の策略によって追い詰められ、その生涯を終えてしまいます。
この時、関羽と劉備が別れてから約8年間が過ぎていました。
劉備はもちろんのこと、多くの武将に尊敬された関羽でしたが、前述した『自信が強すぎる』という性格が裏目に出てしまったのです。
当時の呂蒙は病気であり、新任に代わったのが陸遜でしたが、陸遜の平身低頭な姿勢に油断をしたことで関羽は命を落としたのです。
画像引用元:関羽
関羽は呉によって処刑されましたが、劉備の怒りの矛先を変えるために、孫権は関羽の首を曹操に送りました。
関羽の首を届けられた曹操は丁重な埋葬をし、喪に服して手厚く葬ったと言われています。
三国志が史書として書かれた後世、忠義に生きた関羽の評価が上がったことによって道教での47人目の神になったという経緯があり、現在でも中国各地には関羽を祀る霊廟が残されています。
現在では様々なご利益のある神様として沢山の人々に慕われています。